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一向一揆 越前熊坂

 投稿者:畑秀樹  投稿日:2017年 5月25日(木)22時46分54秒
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  越前熊坂は朝倉家攻めに召集された本願寺派の信徒と武士、僧兵など30万人が九頭竜川まで布陣したときに、勢いに乗り荘園を襲撃し全滅させられており、怨霊の影響が今もなお存在する。また朝倉勢に負けて敗走する一向一揆勢も熊坂あたりで随分と殺されているようで、村人の伝承で毎日、千人単位で焼却し埋めたと聞いている。あわら市の前谷では刈安峠を降りてきた一向衆が朝倉勢に待ち伏せされ多数の死者を出したとの記録もある。あわら市の瓜生では朝倉家の家臣の城を一向宗が囲み籠城戦となったが山の上から水が湧き兵糧攻めを免れたとされる。
越前熊坂では慰霊祭を実施し、随分と厳しさが緩和したのは感じることが出来るように成ったのを感じれる。今のあわらや丸岡の平野部は湿潤で戦はなかったであろうが、山側は血で血を洗う凄まじい場所であったと思います。
 
 

加賀に住んでるが分からん

 投稿者:畑 秀樹  投稿日:2016年 3月28日(月)20時34分43秒
返信・引用
  私が知った事を書きます。
・加賀の吉崎の駐在横の場所は平家に反対する者たちが京から連れてこられ処刑された場所。今でも金閣寺の管主が供養に来ている。金閣寺と言えば北条家の関係で源氏を応援していますし、反対派が密会した場所にちなんで、名も無き大聖寺川の中州に出来た島を「鹿島」とした。(平の清盛の弟の領地だったからね) 負けた天皇が葬られているのではと思うのですし、鹿島の上の神社は天皇家の紋章入りの瓦があるけど、これは南北朝での戦いで皇室の方々が亡くなった場所にある神社には天王家の印がある。(敦賀金華山、鹿島の森、小松)
・日谷(ひのや)の城の横の谷ですが、捕らえた一向一揆衆を3000名ほど殺して谷に落とした。
・敷地の山の金吾城では弘治元年1555年8月13日(旧暦)に大一揆側が朝倉と小一揆勢の守る城に
計88,000が攻めたが全滅、
・片山津では源平合戦、橋立の加佐岬から黒崎にかけて源氏の追手に殺された平家の者たちを葬った塚があるが、数基加賀時代村が潰した関係で、若い役者が温泉駅の踏切で鉄道自殺、女性も同じ場所で線路で死んでいる。
・交通死亡事故がおきるだの自殺場所などでは地縛となった存在が作用して、幸せには生きられない現象が起きているんですが、目には見えないから可哀想にレベルで誰がこれがと理由は言えるが本当の理由は見えないのです。
・こんな曇り深い場所はそうそうないでしょう。
日本全体といえばそれまでですが、昔は加賀平野は湖沼であったので狭い陸地、それも海岸線や湖沼の側の小高い丘陵で、しかも近い場所で殺し合いが起きており、加賀に住んでいる私たちは、戦国時代から江戸時代で安定し国が統一されてから加賀の地を与えられていますので、自分たちが今でも苦しみ、恨みつらみでいるところに家を建て生活なんて、まともに天寿など全うできるわけがない。
・再び平野が湖沼になる可能性は非常に高くなったとしか・・・それでなくても日本人弱体化計画で薬漬けの生活では、どうにもならないし消滅可能性都市の加賀の住人はじり貧ですね。
・ですから坊主の供養?葬式仏教では救われないしセレモニーホールにはも墓場にも、うようよ存在しているので頭が痛くなる。スマホの電磁波だけではないのです。私たちは後から来たものであると思います。
・平家の落人達は山奥で生活していましたが、それで何とか農民も武士も作用しなかったのであろうか?それとも陰で暗躍していたのかもしれません、忍びのよう少数民族のようにね。
 

研究の難しさ、あれこれ

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2015年 5月20日(水)22時57分48秒
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  名も無き百姓兵様、はじめまして。

石川県立美術館で尊経閣文庫所蔵の美術品を展示する「百万石の名宝展」ですね。
今回は近世前田家の甲冑等を展示するそうです。
あそこは美術品を展示する場所ですから、民衆の歴史展示とは若干異なりますね。

かと言って、加賀一向一揆の歴史とか当時の加賀の歴史になってくると、あれだけの歴史的事件にもかかわらず、その資料の少なさに愕然とします。
兼六園から金沢城にかかる石川橋下の道路拡張工事に伴う発掘調査など、中世戦国時代の新資料はどれも断片的で単発的なものばかりで、全体像の0,001%にも及ばないと思っています。

ただそれでも研究者はあちこちにいるもので、山科本願寺の発掘調査とか全国規模では少しずつ研究が進んでいるなあと、少々うらやましく思います。
高尾城においても、石川県や金沢市の分布調査から早や何年も過ぎ、長享2年の高尾城合戦だけではない高尾城の実像が少しずつ見えてきています。

その高尾城跡においては、今ではタケノコの産地としてきちんと山の手入れをされている方々もいて、その方々の生活を抜きにして史跡整備を行うことは何としても避けたいと思っています。
高尾城の本丸部分もまるまる残っていますし、高尾城については、未来に託すのもアリかな、とも思っています。
特に、ちょうど今は年に1度のタケノコの収穫時期にあたっていますから、私もタケノコ泥棒に間違われないように、高尾城の踏査は控えているんですよ。
 

はじめまして

 投稿者:名も無き百姓兵  投稿日:2015年 5月16日(土)13時29分28秒
返信・引用
  「百万石の宝物展」とやらが始まるそうです、このような煌びやかなモノのみが取り上げられ、歴史的にも稀有な内乱には「新幹線効果」も及ばそうとせず、歴史の屑篭に葬ろうとする悪意を感じてなりません。
この地に生まれた者として、小さい頃から祖先の戦いを想い育ってきました。
この日本では「部落」「一揆=内乱」「革命運動」といった支配層に都合の悪い存在について研究すらまともに行われない傾向が強いなか、このような立派なサイトを運営されておられる管理人の方を尊敬し、感謝するものです。
皆さんの根本的考え方は様々でしょうが、高尾城跡に対する横暴なやり口を見ると、現代の権力も「加賀百万石」とそれに従わぬ者への対処は同じと思わざるえません。
皆さんの迷惑でなければまた寄らせていただきます。
 

加賀一向一揆のイメージと実像

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2015年 5月11日(月)22時20分29秒
返信・引用
  gabro様、初めまして。

手取川以南の南加賀地域は特に加賀市域を中心に、加賀一向一揆百年の間にかなりの頻度で越前の朝倉氏に攻め込まれていて、時には小松市域まで攻め込まれたりしています。
また、朝倉氏に追われて越前の和田本覚寺や藤島超勝寺が加賀に亡命し、現在の小松市域に寺坊を構えました。
この越前の二寺と加賀の三か寺である若松本泉寺・波佐谷松岡寺山田光教寺等の蓮如子息系加賀の大坊との確執が、越前二寺と結んだ本願寺内の一派によって、当時加賀最大の内乱である大小一揆(享禄の錯乱)が起こり、加賀の門徒同士が相争い、これに敗れた三か寺派の人々は三か寺を離れて「直参衆」として再編成されていきました。
その後、三か寺派の巻き返しとして小規模ながらも天文の乱が起こり、加賀一国内でも一向一揆は決して一枚岩ではなかったことが確認できます。
しかしながら他国からの外敵には一致して戦っており、こういうところが加賀一向一揆の複雑なところではないかなと思っています。

ただ本願寺の側も明確な見通しのもとで加賀を進退していたわけではないようで、本願寺と加賀一向一揆は不即不離ではあるものの、決して一体というわけでもなく、このあたりにご指摘の顕如派と教如派の確執も淵源があるのかなあ、と思います。


なまず様、初めまして。
どうも新幹線の開通以来、金沢が全国的に注目されてしまって兼六園やら金沢城やらをテレビで目にする機会が多くなってきました。
これに対して、加賀一向一揆時代の金沢については、今のところ研究がほとんど進展していません。
かつての金沢御堂(尾山御坊)の跡に金沢城が築かれたという話が喧伝されていますけれど、実はその証拠は一切ありません。
すべて後世の推測にすぎず、江戸時代には小立野など、金沢城とは全く別の場所に御坊はあったと加賀藩士が考証しているくらいで、いかに前田家が一向一揆時代を抹殺してきたかがわかります。

それでも当時の人々は生きて生活していたわけで、そのあたりをなんとかして知りたい、というのが切実な思いです。
 

こんばんは

 投稿者:なまず  投稿日:2015年 5月 2日(土)21時06分35秒
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  いわゆる加賀百万石…以前の加賀に興味を持ちお邪魔させて頂きました。
とても興味深く又、加賀一向一揆を誤解してた部分もずいぶんありました。
尾張人前田利家が統治する何百年も前からこの地で生きてきた人々の姿をホンの少し…覗けた気がします。
 

こんにちは

 投稿者:gabro  投稿日:2015年 2月22日(日)17時14分45秒
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  加賀地方、小松市は昔真宗王国といい、百ヶ寺と呼ばれる百あまりの地元の寺院のうち97件が東本願寺系という事態になっています。
本願寺と信長の講和のいざこざに端を発するわけですが、顕如は信長と講和を結んだ時、加賀一向一揆にも一応話は通していたそうです。
しかし息子教如が籠城継続を主張した時、加賀の一向一揆は教如側を支援し、戦後はお東へほとんど改宗
以前も本願寺の要請通り京都を支援せず富山側の百姓支援に回ったり、京都からの派遣坊主が偉そうとかいう悪口が残ってたり、
本願寺と加賀一揆の間にはなんか空気というか温度差がかなりあったのではないですかね
 

A L O H A LA様へのレスと、おとぎ話からの脱却

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2014年11月 8日(土)23時05分33秒
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  A L O H A LA様、はじめまして。

>なんか皆様、すごく難しいこと考えていらっしゃいますね。

今までの加賀一向一揆の評価が
「高尾城の合戦後、約100年間、加賀では民衆が支配していました、めでたしめでたし」みたいな、
おとぎ話じゃあるまいし、ちゃんと生きてきた人間たちの歴史なのですから、そこのところをしっかり
見つめ直そうよ、というだけの話なんですよ。

この11月から、読売新聞で加賀一向一揆の歴史小説が始まったことでもあり、もう21世紀に入ってだいぶん経ちますから
そろそろ加賀一向一揆も「おとぎ話」から脱却してもいいんじゃないかと思います。
 

う・・・。

 投稿者:A L O H A LA  投稿日:2014年10月 8日(水)19時27分18秒
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  なんか皆様、すごく難しいこと考えていらっしゃいますね。

すごいと思います。。
 

レス:山形と二俣本泉寺

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2014年 2月11日(火)23時43分23秒
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  じぇい様、初めまして。
加賀一向一揆の末期において加賀北部もかなり混乱したようで、押野一族のうち、加賀に残ったのは野々市の後藤一族だけで、あとは離散したと伝えられています。
それで山形大学の調査によって、この時期にかなりの坊主と門徒が山形に脱出したことがわかってきたそうです。
押野一族と言えば、一揆衆の中でもかなりの大物ですから、さもあらんと思います。
貴重なご一報、本当に有難うございますm(_ _)m

英田三九郎様、初めまして。
普通の日に行くと、二俣本泉寺といえども、本当に、そこら辺にあるようなお寺ですね。
ただ、あそこのお寺の真骨頂は、やはり仏事のある日です。

金沢では、今でもお通夜の席などでは、葬儀場が気を使って参集した方々に和讃などが書かれた経本を配って、坊さんと一緒に唱和できるようにしています。
もちろん、今では参集した人は私も含めてほとんど使わないし、唱和することもしないのですけれど、二俣は違います。

昔一度だけ、二俣に参加したことがありますが、参集した方々ほとんどが阿弥陀経や和讃を覚えていて、皆で唱和するんですよ。
むしろ本を持っていたり、唱和しないことの方が他の方々から奇異の目で見られます(苦笑)
本当に信仰が生きているといった感じで、非常に驚きました。

今ではそんなところも少なくなっていると思いますけれど、ああいう人々の姿を思うと、やはり現在でも真宗王国と呼ばれるのも当然か、と思います。
 

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