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加賀一向一揆のイメージと実像

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2015年 5月11日(月)22時20分29秒
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  gabro様、初めまして。

手取川以南の南加賀地域は特に加賀市域を中心に、加賀一向一揆百年の間にかなりの頻度で越前の朝倉氏に攻め込まれていて、時には小松市域まで攻め込まれたりしています。
また、朝倉氏に追われて越前の和田本覚寺や藤島超勝寺が加賀に亡命し、現在の小松市域に寺坊を構えました。
この越前の二寺と加賀の三か寺である若松本泉寺・波佐谷松岡寺山田光教寺等の蓮如子息系加賀の大坊との確執が、越前二寺と結んだ本願寺内の一派によって、当時加賀最大の内乱である大小一揆(享禄の錯乱)が起こり、加賀の門徒同士が相争い、これに敗れた三か寺派の人々は三か寺を離れて「直参衆」として再編成されていきました。
その後、三か寺派の巻き返しとして小規模ながらも天文の乱が起こり、加賀一国内でも一向一揆は決して一枚岩ではなかったことが確認できます。
しかしながら他国からの外敵には一致して戦っており、こういうところが加賀一向一揆の複雑なところではないかなと思っています。

ただ本願寺の側も明確な見通しのもとで加賀を進退していたわけではないようで、本願寺と加賀一向一揆は不即不離ではあるものの、決して一体というわけでもなく、このあたりにご指摘の顕如派と教如派の確執も淵源があるのかなあ、と思います。


なまず様、初めまして。
どうも新幹線の開通以来、金沢が全国的に注目されてしまって兼六園やら金沢城やらをテレビで目にする機会が多くなってきました。
これに対して、加賀一向一揆時代の金沢については、今のところ研究がほとんど進展していません。
かつての金沢御堂(尾山御坊)の跡に金沢城が築かれたという話が喧伝されていますけれど、実はその証拠は一切ありません。
すべて後世の推測にすぎず、江戸時代には小立野など、金沢城とは全く別の場所に御坊はあったと加賀藩士が考証しているくらいで、いかに前田家が一向一揆時代を抹殺してきたかがわかります。

それでも当時の人々は生きて生活していたわけで、そのあたりをなんとかして知りたい、というのが切実な思いです。
 
 
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