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レス:山形と二俣本泉寺

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2014年 2月11日(火)23時43分23秒
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  じぇい様、初めまして。
加賀一向一揆の末期において加賀北部もかなり混乱したようで、押野一族のうち、加賀に残ったのは野々市の後藤一族だけで、あとは離散したと伝えられています。
それで山形大学の調査によって、この時期にかなりの坊主と門徒が山形に脱出したことがわかってきたそうです。
押野一族と言えば、一揆衆の中でもかなりの大物ですから、さもあらんと思います。
貴重なご一報、本当に有難うございますm(_ _)m

英田三九郎様、初めまして。
普通の日に行くと、二俣本泉寺といえども、本当に、そこら辺にあるようなお寺ですね。
ただ、あそこのお寺の真骨頂は、やはり仏事のある日です。

金沢では、今でもお通夜の席などでは、葬儀場が気を使って参集した方々に和讃などが書かれた経本を配って、坊さんと一緒に唱和できるようにしています。
もちろん、今では参集した人は私も含めてほとんど使わないし、唱和することもしないのですけれど、二俣は違います。

昔一度だけ、二俣に参加したことがありますが、参集した方々ほとんどが阿弥陀経や和讃を覚えていて、皆で唱和するんですよ。
むしろ本を持っていたり、唱和しないことの方が他の方々から奇異の目で見られます(苦笑)
本当に信仰が生きているといった感じで、非常に驚きました。

今ではそんなところも少なくなっていると思いますけれど、ああいう人々の姿を思うと、やはり現在でも真宗王国と呼ばれるのも当然か、と思います。
 
 

二俣本泉寺

 投稿者:英田三九郎  投稿日:2014年 1月 8日(水)11時23分22秒
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  昨年11月に加賀二俣本泉寺に行ってきました。蓮如が吉崎で布教する前後に3年も居たという言わば浄土真宗の聖地のような所と期待して行ってきましたが、参詣者は私と家内だけで、本堂には誰もいなくて、あまりに無防備なのにびっくりしました。お寺の裏にある蓮如の頭頂部を納めた廟や、蓮如上人が作庭されたと言われる「九山八海の庭」も見てきましたが、かなり荒れていました。このお寺の歴史的な価値と、現実の姿のギャップにかなりショックを受けました。私は個人的にはこの二俣本泉寺は全国1500万の浄土真宗信徒の聖地と呼ぶべきお寺だと思っているのですが・・・・。  

押野一族

 投稿者:じぇい  投稿日:2013年12月27日(金)08時36分42秒
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  押野一族は山形県天童市にある仏向寺というお寺を頼って 落ちのびたと聞いたことがあります  

高尾城跡に思うこと。

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2012年 6月12日(火)22時05分4秒
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  Juri様、初めまして。ようこそいらっしゃいましたm(_ _)m

ご指摘のように、現在でも高尾の城山は金沢での筍の名産地となっています。
そして、北陸自動車道造成のために「ジョウヤマ」部分は破壊され、これを知った加賀一向一揆研究の泰斗である故井上鋭夫氏が激怒、問題提起されて、遅ればせながらジョウヤマ部分の簡単な分布調査が行われました。

以後、ながく高尾城跡は調査を受けることなく、再び眠りにつきました。
眠りが破られたのは昭和59年の6月、その前年度から行われていた金沢市教育委員会による城郭調査で、高尾城が県内屈指の規模を持つ巨大な城塞群だったことがわかりました。
引き続き昭和61年から詳細な分布調査が行われ、破壊されたジョウヤマ部分を除くほとんどの地区において、石積みを含む山城遺構がかなり残されていることが明らかになりました。

歴史研究者の立場なら、ここで高尾城の史跡保存のみを唱えるところですが、これらの遺構を大きく改変することなく保存してこられたのは、地元の筍農家の方々の努力の賜物です。
高尾城は現在でも、生きて地元に生活をもたらしてくれる、恵みの山となっています。
私はこれを失いたくないと思っています。
史跡の保存と生活の両立を考えている金沢市に期待したいところです。
 

高尾町に生まれました

 投稿者:Jiri  投稿日:2012年 6月 9日(土)12時41分47秒
返信・引用
  私は高尾町に生まれました。
今は郷里を離れて生活をしていますが、懐かしく高尾の城山を見させていただきました。

5月になれば筍掘りを手伝いました。
私の生家は城山の所有者でした。
私が中学の頃に北陸自動車道を造るために土砂が必要となり、城山の土に白羽の矢が立てられました。
父は城山には石積み部分もあり、史跡の保存・・・、というか先祖から守り伝えてきた土地を売ることに抵抗があったのでしょう、随分と悩んでいました。
結局、高速道路は皆さんのためになるからと説得させられたようでした。

父は冨樫氏への造詣が深い人でした。
冨樫氏は『富樫』ではないと言っていたのを思い出しました。

有り難う御座いました。
 

越前とか、加賀一向一揆とか、当時の武士とか(^^ゞ

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2012年 6月 5日(火)20時21分27秒
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  こたつ城主様へお返事です。

「初めに」は、このコンテンツを立ち上げた時からのもので、私の立場表明みたいなものです。
今でもあまり変わりありませんけれど、「加賀一向一揆」と言うと、たいがい「門徒共和国」とか「共和制」とか、一言で済まされることがあまりにも多いので、百年間も続いた人間の営みって、そんな単純に考えていいのか、と思い、もう少し立ち止まって考えてもいいんじゃない?という意味で、書いたものです。
まあ、そういう大風呂敷を広げた割に、コンテンツの作成が亀の歩みよりも鈍いものですから、今では非常に恥しいものになっています(苦笑)

>甲斐氏というのが、わりとキーを握ってますね(^^ゞ。

相変わらず、鋭いご指摘です。
朝倉氏と言うと典型的な戦国大名で、越前一国をずっと一円支配していたような印象がありますけれど、朝倉氏をはじめとした越前や周辺諸国の動向は、けっこう甲斐氏の動きと関わっています。
それが越前を含む北陸諸国の動きを複雑にさせていたりして、なかなか一筋縄ではいかない一族です(笑)
こたつ城主様がお読みになられたのは人物叢書でしょうか。朝倉氏の動向には、あちこちで甲斐氏が関わっていますから、その意味では面白い一族ですね。

大小一揆は、発端が越前の和田本覚寺と藤島超勝寺が越前を追い出されて加賀に勢力を伸ばそうとしたところから始まっていますから、この対立を制した本覚寺・超勝寺に対する朝倉氏の反応は、当然だったと思っています。
特に和田本覚寺などは越前のみならず越中や美濃、東海地方まで影響を及ぼすほどの力があり、朝倉氏の国境閉鎖は決して過剰な反応ではない、と思います。

>三門徒派というのは、… 血脈より師弟相伝を基軸とする点なんか特に。

もともと本願寺は親鸞の子孫による親鸞廟から出発していますから、純粋な阿弥陀信仰とは微妙に違っていて、むしろ親鸞の教えよりも親鸞讃仰に重点を置いたために、他派の隆盛を招いてしまったという感が強いです。
その意味で浄土真宗本願寺派というのは、現代においてもちょっと毛色の変わった教えと言えるかもしれません。

>蓮如自身がこれほど口調を厳しくして武士を牽制してるのにも関わらず、門徒勢力に武士が入って来るのは、蓮如の時代、
>すなわち文明年間(1469~86)なのだそうです(^_^;)。。

たぶん、蓮如の言う「武士」というのは、いわゆる在地武士のことではなく、守護とかの上級武士だと思いますよ。
当時は在地の有力百姓でも在地武士化していたり、商人としても活動していた連中がごまんといましたから、江戸時代以降の身分別けによる「武士」とは別けて考えた方が良いと思います。
時により農作業をし、時により商売をして、それらで力を蓄えて在地の有力者つまり地侍として自分たちの勢力を拡大する人々は大勢いたわけで、彼らを守護や守護代などと同列に考えるのは、ちょっと無理があると思います。
蓮如はもともと京都の都会人で、彼の目に映る武士と言うのは、幕府を構成する守護だとか奉行人だったはずで、彼らと地方の在地武士とは雲泥の差があると考えた方が良いでしょう。
 

屋形の掲示板から移って来ました(^^ゞ

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2012年 5月30日(水)20時01分17秒
返信・引用
  こんにちは。「屋形の掲示板」から移って来ました(^^ゞ。流れとしては3/27から始まってます(その前の流れから、或いはヨソからも支流が集まって、とも言えますが:笑)。
「屋形の」では、「『官知論』を読み進んだら、こちらに移動」と言いましたが、こちらに来たら来たで、やはり前段の流れを“おさらい”のため目を通しまして……(^^ゞ。

「初めに」←そもそも、こちらで主旨を述べておられたんですね(^^ゞ。前から「初めに」はありましたっけ? 続く「富樫×冨樫」は読んだ覚えがあるので、読んだのに、久し振りで忘れていたのかもしれません(^_^;)。

特に一向一揆の事を知ろうとして、というわけではないですが、このごろ義景まで至る朝倉氏の本を読みまして、前に読んだ蓮如の頃よりグッと前進して、一気に信長の時代まで、北陸・中部・畿内の事が書かれているので、その後の蓮如(以前の本願寺・加賀国・吉崎への道のり・吉崎留錫)の話をこちらで読んでも、前ほど距離を感じなくなりました(笑)。
朝倉を東軍に引き入れようとする辺りは、特によく出て来るので勿論なんですが、何がわかるようになったかと言うと……甲斐氏というのが、わりとキーを握ってますね(^^ゞ。

「蓮如の吉崎留錫」より
>またこの当時の蓮如と朝倉氏の関係が、まだまだ決して
>険悪なものでなかったことがわかります。

そう(^^ゞ。この辺りも信長が出て来る頃には、既に何勢力が関わってるのか判らないほど複雑になってて、やはり越前をやらないと実感が湧きませんね(笑)。
朝倉氏と加賀一向一揆との関係(悪化?)については、享禄~天正(1531~32)の大小一揆の衝突(太田合戦)まで通読したんですが、こちらのコンテンツをその辺りまで読もうと来て……わりと長いんで、今日は「文明6(1474)年一揆」に差し掛かった辺りまで読んで、今宵は失礼します(^^ゞ。
ただ、この大小一揆から朝倉氏が加賀との国境を閉鎖してしまうんですね。そしてその交渉に出て来るのが本願寺なので、一揆=本願寺という見方が出てしまうんでしょうかね。。

以後、「屋形の」で頂いたレスから(^^ゞ。
>蓮如が本願寺を継ぐまでは、三門徒派が強くて

私はこの三門徒派というのは、過激な部分もあるんでしょうが、本願寺より筋が通ってる感じがしてしまう所も無くは無いです(^_^;)。血脈より師弟相伝を基軸とする点なんか特に。

>>当初は武士を門徒に組み込む考えではなかったんですよね(^_^;)。
>要の人物には注目しているようですけれど、そこに「武士」というのは出てこないです。

蓮如は夥しい文書を残しているので、どこで何を言ったか辿るだけでも大変と思いますが(^_^;)、私の言に相当するのは『栄玄記』に、「親不孝・異端(本願寺以外の真宗門徒)・武士」とあり、「法敵」と糾弾されてるそうです。
蓮如自身がこれほど口調を厳しくして武士を牽制してるのにも関わらず、門徒勢力に武士が入って来るのは、蓮如の時代、すなわち文明年間(1469~86)なのだそうです(^_^;)。。

http://kotatu.jp/

 

画像を少しUp

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2012年 5月 6日(日)01時05分50秒
返信・引用
  金沢の卯辰山丘陵と若松本泉寺跡の位置がわかる画像と、懸案だった清沢願得寺跡の画像をUpしました。
卯辰山画像は、ちょっと古い写真を加工したもので、今は卯辰山トンネルも開通し、朝夕ラッシュが続いています。
 

削除しました。

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2012年 4月27日(金)22時10分9秒
返信・引用
  「アルファベットの羅列」氏が続いて、不明リンク先も張ってあったので、これらを削除しました。  

「金沢里山散歩」ホームページ 様の貴重さ

 投稿者:林六郎光明メール  投稿日:2012年 2月28日(火)20時04分44秒
返信・引用
  「金沢里山散歩」ホームページについて、皆さんから再開を求められる声を寄せられて、私としても嬉しく思います。
高尾城跡周辺のみならず、金沢周辺全体の里山についての画像も多く、その内容も丁寧な観察に基づかれていて非常に貴重な内容だったと思います。

私どものような歴史系サイトでは山城跡などの遺構の画像はUpしても、その遺構を覆っている植物に注目することはほとんどありません。
高尾城跡に関して言えば、現在は近世に植えられた竹林にほとんど覆われていて、本来の雑木に覆われていた時代の高尾城の景観を偲ぶことはなかなか難しくなっています。
bochibochi様はその雑木に注目され、非常に貴重な視点を提供して下さっていました。
まずはbochibochi様からのご一報をお待ちいたします。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

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