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ご無沙汰しております。

 投稿者:bochibochi  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時46分1秒
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  投稿日:12月29日(土)12時58分57秒

林六郎光明様

ご無沙汰しております。お元気でお過ごしでしょうか。私の方はしばらく山歩きの機会もなくインターネットからも離れていましたが、その間にホームページの内容が部分的にすっかり古くなってしまったりしていました。平成に入ってもう20年、昭和も過去の歴史になっていきますね。

よいお年をお迎え下さい。

http://bochibochi9.hp.infoseek.co.jp/

 
 

(無題)

 投稿者:小澤  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時44分50秒
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  投稿日:10月27日(土)07時28分28秒

福井に住んでいます。朝倉氏との関係を知りたくて、道草しました。
よくできていますね。すばらしいホームページです。また寄ります。
 

(無題)

 投稿者:長島 伊勢守 弥富之祐 五郎   投稿日:2008年 8月 9日(土)15時43分38秒
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  投稿日:10月22日(月)23時22分35秒

来訪しました(長島
 

「守護大名」の危うさ

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時42分35秒
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  投稿日: 7月29日(日)11時22分56秒

>室町時代というか中世という時代が急激な変化があって、ひとくくりにはとてもできないですね

本当にそうですね。
とにかく、話がこんがらかって、どうにも訳がわからないので、私の場合はとりあえず、「守護」と「守護大名」「戦国大名」の区別をつけることから始めました。
特に「守護大名」から「戦国大名」にかけての守護大名たちの動きに加えて、守護大名系の守護代と在地系の守護代の確執などを考えると興味深いですね。

>今日からこのひとが守護ねって言われても受け入れられるほど単純なものではない
基本的に、あの時代は近世の殿様とは全然違うので、在地の国人たちが受け入れること自体が非常に少ないと考えた方が良いと思いますよ。
つまりは「守護大名」の地位がいかに不安定なものなのか、ということですね。
 

急激な変化。

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時40分56秒
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  投稿日: 7月25日(水)23時13分38秒
どうも、こんばんわ。畠山義綱です。
>林六郎光明様
お返事有難うございます。どうも、私は考えることがピントがずれている(笑)
というのも、やはり室町時代というか中世という時代が急激な変化があって、ひとくくりにはとてもできないですね。守護大名と戦国大名も一言ではくくりきれないほどの時代の変化、地域での変化、横軸も縦軸も大きく変化しているからこそ、みていくのが面白いわけですが…。
>中央の権威は振りかざせたものの、在地掌握とまではいかなかったのではないでしょうか。
首だけ挿げ替えてもうまくいかないわけですね(笑)そりゃそうですよね。急にはい今日からこのひとが守護ねって言われても受け入れられるほど単純なものではないでしょうし、変化が多ければ多いほど、従来の権益を守ろうとする逆バネも働くわけで…。新たな勢力と、国人との板ばさみにあった政親。ああ、政権運営も難しそう…。
 

順序が間違ってました

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時39分19秒
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  稿日: 7月21日(土)22時47分11秒

冨樫教家・泰高の内紛→赤松との確執→冨樫政親・幸千代の内紛
の順番でした。
 

赤松と冨樫

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時37分57秒
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  投稿日: 7月21日(土)22時40分41秒

>畠山義綱様

加賀においては政親と幸千代の確執があり、それが終わったと思ったら、赤松の入部ですから、加賀国内における「守護」の威信低下はかなり激しかったのではないかと思います。

赤松の場合は「守護としての治世」ではなく、守護と言う「利権」確保が前面に押し出ていたはずで、それがこたつ城主様の言われる
>赤松氏の守護代・小寺藤兵衛は長禄2(1458)年10月、加賀に押し入り、
となるわけです。

中世は完全に利権争奪戦の連続ですから、その中でいかに在地の国人や土豪層に利権を分配するかが守護の在地掌握の要であり、外来の赤松=小寺は、その点、中央の権威は振りかざせたものの、在地掌握とまではいかなかったのではないでしょうか。
むしろ赤松の横暴を止められなかったということで、政親の権威低下だけが起こったような気がしています。
いかがなものでしょうか?(笑)
 

加賀守護・赤松政則

 投稿者:畠山義綱メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時36分44秒
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  投稿日: 7月21日(土)08時18分8秒

どうも、こちらでも横レスすみません。畠山義綱です。
>林光明様
>最近、赤松との加賀国内での確執が加賀一向一揆の重要な伏線になっているんじゃないかと考えています。
>加賀における守護権威の急激な低下という意味で、このあたり、少し深く考えてみる必要がありそうです。
加賀に赤松が関わってくるのは、冨樫にとって非常に迷惑であると同時に、加賀の国人にとっては新たな守護と従来の守護との板ばさみでどちらにつくのか迷うだろうし、その意味でも権力が低下するのかな~と私も思っておりました。それを考えるとき、赤松政則が加賀でどのような治世をしたのかよくみていかないとと思っているのですが(仕事が最近忙しかったので出来ていません…)。光明様が考えていること、かなり興味深いですね…。その辺も現在のチャットテーマシリーズが終わったあとでもお話できれば楽しいですね~。
 

やっとすこしヒマができました。

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時35分33秒
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  投稿日: 7月15日(日)23時56分31秒

最近、赤松との加賀国内での確執が加賀一向一揆の重要な伏線になっているんじゃないかと考えています。
加賀における守護権威の急激な低下という意味で、このあたり、少し深く考えてみる必要がありそうです。

>子供の頃「シンデレラ」
蓮如自身が書いていますが、かなり酷い生活だったようです。その頃の本願寺自体がかなり傾いていましたので、それに輪をかけて苦しかったようです。
 

お久し振りです(^^ゞ

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時34分18秒
返信・引用
  投稿日: 7月11日(水)20時52分5秒

>イギリス人やオランダ人は「紅毛人」と呼んだ、ぐらいは書いて
>あるんですけどね。その程度でうやむやにしている感じです
はい、私もその程度の認識でした(^^ゞ。八雲は欧米でずいぶん読まれてるので、この項に関しては、日本人より向こうの人の方が日本をよく知ってるかも?(笑)

また跨りネタでアレですが、「花の乱」は残念でしたね(^^ゞ。
ちょうど「蓮如以前の加賀国」の後ろにあるのに付随して書きますと……、

>赤松氏の遺臣が旧南朝の保管していた神器を取り戻したため、
>幕府は恩賞として当時7歳の赤松政則に北加賀の半国を与えたのです。
神器奪回はドラマとしてかなり濃厚に描いてました(^^ゞ。その恩賞に赤松が預かった事も。加賀はセリフだけですがあったと思います(どこかに「加賀」という言葉が出て来た記憶があります)。

>赤松氏の守護代・小寺藤兵衛は長禄2(1458)年10月、加賀に押し入り、
>外来の赤松氏守護代・小寺藤兵衛が三つ巴となって応仁の乱を
この辺りは流石にやらなかったです(^^ゞ。後の黒田官兵衛ごろのドラマだと取り上げてる物もあるかもしれませんが、近頃の時代劇みたいに、無用にあれもこれも取り上げる物は出来として最悪なので、このドラマでは取り上げないで良かったと思います。

>赤松氏は東軍であり
ここは濃厚でしたね~(^^ゞ。本放送の時はあまり知らなかったので、端役には目が行かなかったのですが、再放送ではバッチリ赤松を追い掛けてました!(笑)
ただ加賀を舞台にした展開はありません。全て京を舞台にしてました。
朝倉氏も同様に端役ですが始終出てました(笑)。赤松は「脇役」、朝倉になると「端役」って感じで、この頃のドラマと違って「主役」「脇役」「さらに端役」の色分けがハッキリしてたので、再放送で注目する役回りだったと思います。

「蓮如・吉崎への道のり」の冒頭に入ったんですが、蓮如って……子供の頃「シンデレラ」だったんですねっ(^^;)。。意地悪な継母に雑巾掛けとかばかりさせられてたのでしょうかっ。

http://kotatujo.cool.ne.jp/

 

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