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南蛮人と紅毛人

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時32分34秒
返信・引用
  投稿日: 6月 8日(金)20時13分55秒

>カソリックだけがキリシタン(つまり邪教)とされ、
このあたり、本当は学校なんかでもきちっと教えるべきなんですよね。
カソリックのイスパニア人とポルトガル人はキリシタンとするけれど、新教プロテスタントの新興国であるイギリス人やオランダ人はキリシタンとはみなさないってこと。
イスパニア人やポルトガル人は「南蛮人」、対してイギリス人やオランダ人は「紅毛人」と呼んだ、ぐらいは書いてあるんですけどね。その程度でうやむやにしている感じです。
 
 

ありがとうございます

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時31分25秒
返信・引用
  投稿日: 6月 2日(土)23時57分58秒

>惣の中心である「坊主、年寄、乙名」を教化する
それです! だいぶ前に読んだので具体的な言葉が出て来ませんでしたが(^^ゞ。

>フロイスの『日本史』にいくつか記述があります。デウスの恩寵みたいな
フロイスかっ(≧▽≦)。まさに「デウスの恩寵」って感じで出て来ます(笑)。それをまた蛇蝎のように嫌ってる感じも……(汗)。ただ「当時の伝道者の文献によると」みたいに出典はボカされ(^_^;)、ボカそうという意識なのか、西洋人にはイチイチ説明しなくても通じるからなのかは判りません。
蛇足ながら、禁教時代について、カソリックだけがキリシタン(つまり邪教)とされ、プロテスタントは「それ以外の宗教とされていた」と説明されてました。

>>「実は上からの権力より下からの突き上げの方が強い国なのでは」
これには何故か反論してて、八雲自身の自説を聞いてると、それこそ「中国の話みたい?」と感じる事が少なくないです(^^ゞ。もしかしたら当時あまりにも極東の日本だけが、アジアの中でも特別視されたから、みたいな周辺事情もあったのかもしれませんが……。
アメリカでは八雲の著述を日本の手引書にしてる人が今も多いそうですから、もしかして日本が中国っぽく描かれたり、情景描写とか侍の描き方などでも、日本を扱ったアメリカの映画の勘違いの数々の根っこがここにあるな~、と思う事もしばしば(笑)。

ただ仰せの通り、惣村の成立のような、日本人ですら地味に感じる分野に目を向けた功績はあるのだろうと思います。何しろ当時の日本人は西洋人に、どうもロボット(機械仕込み人間)のように思われてたようですから(当時からそうだったとは:汗)。

>一遍さん自身が熊野権現のお告げをもらったりしているので、
ご教授ありがとうございます。時衆の布教範囲についてもm(__)m。
長野では善光寺にも行ってるようです。って、ぜんぜん珍しくはないのですが(笑)、相模と言えば、曽我兄弟の話がそういや善光寺巡りの尼さん達に語り継がれたようで、これも成立は鎌倉後期~南北朝ごろっぽいので。
一遍さんは「和讃」を用い、後の歌謡・民謡に影響を与えた、とか出て来ますので(^^ゞ、だいぶ芸能に近い存在だったのかも。

>新田義貞による鎌倉攻めに際して、鎌倉内外で死傷者の世話
なるほど。そういう時機は見逃せませんね。「花の乱」でも時宗のお坊さんは庶民に粥を施したりしてました。
一遍さん自身、生家が承久の乱で敗れた側なんですね。勿論そういう事より、寺院という建物が大勢を救わない現実を見て遊行……て感じに想像はしてみるのですが。

http://kotatujo.cool.ne.jp/

 

時衆について補足です。

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時30分2秒
返信・引用
  投稿日: 6月 1日(金)23時09分23秒

>将門の慰霊を行なった

他阿真教は新田義貞による鎌倉攻めに際して、鎌倉内外で死傷者の世話など戦死者の弔いなども行ったそうで、将門の慰霊もその流れなのでしょう。
もともと時衆はどこの宗派にも属しておらず遊行生活を送っていたためか、あちこちの合戦で戦死者の葬送、慰霊を行っていたようです。
 

バテレンは責任とるべし(笑)

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時28分57秒
返信・引用
  投稿日: 5月30日(水)22時46分40秒

>まず同じ先祖を持つ
なんだか惣村の成立について読んでいるような気がしますね。
血縁から地縁へ、そして惣的集団へ、という感じで。

>蓮如について書かれた本を前に読んだ時、確か「惣村」の仕組みを丸ごと利用
これはまさに仰るとおりで、惣の中心である「坊主、年寄、乙名」を教化することを説いています。
乙名はオトナで惣の基本的構成員、年寄は長老、坊主は正式な僧侶ではなくムラの仏堂を守る長老の一人で顧問役といったところです。

>>地方領主層の中でもその知性と人柄によって在地の民衆から尊敬を得ていた人が
これはフロイスの『日本史』にいくつか記述があります。
デウスの恩寵みたいな感じで、ある程度はさっぴいて読む必要はあると思いますが、それでもそれなりに信用できる話ではないかと思います。

>キリスト教はどう責任を取るのか
これは私も実は思ったことがあります。責任とれよ!とか(爆)

>「実は上からの権力より下からの突き上げの方が強い国なのでは」
話に合っているかどうかわかりませんが、日本という国は、アジアの中の1国なのですけれど、唯一ヨーロッパと似通った歴史を歩んできた国です。
他のアジアの国々はほとんどが中国的と言うかアジア的な専制国家の歴史パターンが続いていって、唯一の例外が日本なんです。

>神仏習合の点では、
神仏習合は奈良時代から続いている日本独自の宗教観ですから、時衆以後という特別なことはあまりありません。
ただ、専修念仏の集団ではあるものの、一遍さん自身が熊野権現のお告げをもらったりしているので、神祇に対する崇敬は厚かったようです。

>時衆の布教範囲
これはまさに九州から奥州まで全国規模です。
一遍さんの場合、北陸から信州、上野、下野、奥州、常陸と、以後関東をぐるっと廻っていますし、他阿真教も関東をかなり廻っているようです。
また他阿は後に相模国当麻の無量光寺に定住して、その周辺に教線が広まっていったらしいです。
 

曖昧な点(笑)

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時27分9秒
返信・引用
  5月29日(火)19時51分7秒

>かなり知的水準が高く、しかもプロテスタントとの論争を経てきているので、
>とても論理的にカトリックを教えている様子が窺えます。

なるほど。そういう魅力があったんですね。ありがとうございました。
(八雲と光明さまが時を越えて対談されたら、それを読んでみたいです:爆)

>>つまり大名→領主→領民の拘束といった推測が書かれてました。

「拘束」とまで言うと「強制」に近くなりますよね(笑)。
しかし江戸期について「移動の自由がない」点を述べているので、その前の時代については「強制」とまでは感じてないのだと思います。

まず同じ先祖を持つ者同志で作られたムラがあり、そこに新たに「組」によって編入された(と受け取れるんですよ私には(^^ゞ)人達、あとは主従の結束と忠誠心(武家に限らず工商まで含め)という、個人の意思を尊重した「自発」でもあり、個人の意思では簡単に破れない「伝統(宗教)」でもある、という見方だったと思います。

まだ先々を読んでないのに恐縮ですが、実は蓮如について書かれた本を前に読んだ時、確か「惣村」の仕組みを丸ごと利用(?語弊があったらごめんなさい)して、一揆の勢力を増やしていった、という記述を見掛けたのを、ふと思い出しました。

>地方領主層の中でもその知性と人柄によって在地の民衆から尊敬を得ていた人が
>キリシタンになると、彼を慕って自分たちもキリシタンになるといったような
>事例もあったようです。

この辺りは、「そういう事例もあるが、そうじゃない事例を出されて反論される」のを防いでいるのかな、と感じます(笑)。

八雲は西洋の人ですから、西洋人に向かって物を言うわけで、夥しいキリシタン信者が受けた迫害や殉教に対して、キリスト教はどう責任を取るのか、といった事が書かれてました。
「猛省を促す」といった鼻息を感じます(^_^;)。。
特に大友氏の地盤だったかな……何しろ九州ですが、キリシタンがずいぶん仏寺を焼いたり暴挙を行なった点が書かれてました(^^;)。。

しかしもっと興味深いのは、当時すでに日本人が「実は上からの権力より下からの突き上げの方が強い国なのでは」という見方がされてる事を前提に物を言ってる点です。
この辺りは「それを認めるとヤバイ」と感じるから反論してるのかな~なんて穿った見方をしながら読みました(笑)。

参考までに書かれてる時期を言いますと、ちょうど日露戦争の頃です(爆)。

>それで一遍が死んだときに時衆の集団は崩壊しかかるのですが、
>それを強力に再編成して教団化を推し進めていったのが他阿真教で、

時衆も一度はそうした経路を通ったんですね(゚.゚)。
教団作りと聞くと相当に政治的な人物に思えてしまいますが、将門の慰霊を行なった点などは後に大きな影響を残した証拠だと思います。(無論その後の歴史的な流れもありますが。特に家康の江戸入りですね:笑)
神仏習合の点では、やはり時衆が出て来る前と後では何か大きく違うのでしょうか。

ちなみに時衆の布教範囲と言いますか、どの辺りが特に強い影響を受けたみたいな基盤がありますでしょうか(^_^;)。
東北なんかはどうかな、と思ったり。。

http://kotatujo.cool.ne.jp/

 

キリシタン

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時25分14秒
返信・引用
  投稿日: 5月16日(水)21時47分19秒

「荘園制的領有関係」というのは、上級領主である本所が天台宗の延暦寺だったり三井寺だった荘園や村落のお堂などが、とりあえず天台宗を奉じている程度だったという意味なんです。

>日本のキリシタンの増える爆発的な早さ
フロイスの『日本史』を読んでいると、当時の人々の知能の高さと言うか、その論理的思考に驚くことがちょいちょいあります。
当時の日本に来ていた宣教師たちはヨーロッパなどの大学を出て宣教師になっているので、かなり知的水準が高く、しかもプロテスタントとの論争を経てきているので、とても論理的にカトリックを教えている様子が窺えます。
この論理的な明晰さは当時の日本仏教界になかったもので、だからこそ仏教に凝り固まっている人々はともかく、キリシタンに入信する人々が増えていったのではないかと思います。
また、地方領主層の中でもその知性と人柄によって在地の民衆から尊敬を得ていた人がキリシタンになると、彼を慕って自分たちもキリシタンになるといったような事例もあったようです。
ですから領主が改宗して領民も改宗させたということもあったでしょうが、それが無理やりであった場合、はたしてあそこまで急激に広まっていっただろうか、と考えてしまうんです。

>時衆2代他阿真教
時宗と言えば一遍上人という感じで、一般にはほとんど知られていない人物ですが、実は教団としての時宗を作り、教義を整備した大変な人物です。
一遍さんが念仏札を配って、それについてきた人々が集団を作るのですけれど、一遍自身は教義を教えるとかはあまりしていません。
それで一遍が死んだときに時衆の集団は崩壊しかかるのですが、それを強力に再編成して教団化を推し進めていったのが他阿真教で、彼は念仏聖としても著名だったようです。

>菊理媛命
白山の神様ですね。菊理媛命じたいは鎌倉~室町あたりまで遡れると思いますよ。
でも「非農業民から伝播して白山神社が全国に増えた」のは、その通りだと思います。
日本海から見る白山はけっこう目立ちますし、だからこそ日本海沿岸を中心に末社が広まっていったのだと思います。
ちなみに平泉中尊寺の境内にも白山神社がありますよ。

>赤松氏
加賀の守護になったり、意外と縁のある大名ですね。

http://kotatujo.cool.ne.jp/

 

真教上人

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時23分56秒
返信・引用
  投稿日: 5月15日(火)20時02分27秒

やはり話はかなりコチラ寄りなので、屋形の掲示板から勝手に移させて頂きました(^^ゞ。

今回は「蓮如以前の加賀国」を拝読しました。前に拙サイトでお話しだったのは「軍組織としての組の単位」で、それとは直接は繋がらないのですが、加賀やその周辺が何か一定の時代の型を色濃く残しているからなのか、それとも林さまのテーマが近いからなのか、やはり小泉八雲の「日本」にかなり近い空気を感じました(笑)。

むしろ両方読んで「そうだったのか」と合点が行ったり(笑)。特に「3、村々の草堂と寄合」の辺り。八雲は神道と仏教をわりと分けてまして、分かれる物なら興味がありますが、この辺りは、欧米人を相手に書く上の方便もあるかも(笑)。
「古代的な一宮二宮」までを神道の範囲とし、武士か貴族かはハッキリしませんが、やはり一定身分以上の者が個人的に寺院を建立、変わり易い宗旨替えについては、仏教が日本の祖先崇拝に配慮し柔軟に布教したから、という具合に論じてました。

と言うのも、中国に比べて日本のキリシタンの増える爆発的な早さを指摘しており、むしろそれを書くために上記も長々論述してる感じで、又そこが疑問点として残るから、日本の学者に頑張って調べて欲しい、としながらも、大名からしてキリシタンになっていたからではないか、つまり大名→領主→領民の拘束といった推測が書かれてました。
「荘園制的領有関係」という言葉を見て「そういう事か(^^ゞ」と、今振り返ればそれを言ってたのかな、と思いました。

>時衆の不思議さ
ええ、「5、時衆2代他阿真教の布教」にちょっとビックリ(^^ゞ。
私は知らなかったんですが、有名な人なんでしょうか。
平将門を祀った東京の神田明神の創設に関わる一番古い記述にこの真教上人が出て来ます(^^ゞ。将門の死から360年以上も空白があった後で、ちょっと不自然な長さを感じます。
有名な「将門の首塚」は死後も墓所とされてはいたようですが、その範囲の勢力だった江戸氏(欧米人が見れば「祖先崇拝」でしょう)が衰退して維持できなくなったから、というのが神社で買った本の説明でした。
もちろんこの説明は正しいと思いますが、それを何で旅の途中に立ち寄ったお坊さんが、ヒョイとお寺を作りそれがまた神社になったのか、何か不思議さが残るものですから(^_^;)。
時勢の独特さと聞くと、何となく納得できる感じが初めてしました。

冒頭に「菊理媛命」が上げられてましたが、これも江戸期ですか、非農業民から伝播して白山神社が全国に増えたという話も聞きますね。

あと、赤松氏はこれまた「花の乱」にかなり出て来ますっ(笑)。

http://kotatujo.cool.ne.jp/

 

>仏教経済学?

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時22分25秒
返信・引用
  投稿日: 4月22日(日)10時28分26秒

>エコノミスト様

仏教経済学の参考になるかどうかわかりませんが、加賀一向一揆初期の頃は、まだまだ中世荘園制が残っています。
この時期だと、臨川寺領大野庄の算用状が『加能史料』に所収されているのと、これを分析された浅香年木先生の『中世北陸の信仰と社会』が参考になると思います。

また、享禄年間の大小一揆の内乱を経た天文期になると、本願寺証如の「天文日記」に加賀各地から上がってくる志納銭の大量の記述があります。
このあたりは金龍静氏も確か分析されていたはずです。

戦国時代100年間は、加賀に限らず全国的に経済システムが大幅に変わっていく過渡期でもあるので、このあたりも注意が必要ですが、「仏教経済」と限定されるのであれば「志納銭」を中心に考えられたら良いかと思います。
 

仏教経済学?

 投稿者:エコノミスト  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時21分9秒
返信・引用
  投稿日:3月30日(金)07時46分53秒

どなたか、加賀一向宗の国での経済システムについての資料、文献などについて、教えてもらえないでしょうか?仏教経済学的観点から、100年にわたって、どのような経済の仕組であったかをしりたいと思っております。
 

御著、到着いたしました。

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時19分36秒
返信・引用
  投稿日: 2月10日(土)14時52分48秒

文献目録等、改めて大変なお仕事と思いました。ありがとうございます。
 

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