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『一向宗禁制関係文献目録』を送付

 投稿者:菖蒲和弘  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時18分34秒
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  投稿日: 2月 8日(木)16時14分52秒

 管理人さま。本日、①『肥後国相良藩と一向宗禁制』②『一向宗禁制関係参考文献目録』③『一向宗禁制関係文献目録ー調査・研究の歩みとその成果ー』第63版 ④『人吉・球磨の隠れ念仏』を送付いたしました。
 ③は、手許に最新版(第94版、平成19年1月1日発行)がなく、平成17年3月31日発行の旧版を送付しています。近々、最新版を送付しますから。それから、書き込みもう少し待って下さい。
 
 

Re:時衆と、一向宗は別なもの

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時17分22秒
返信・引用
  投稿日: 2月 3日(土)17時15分30秒

時衆のご研究に基づくご指摘、ありがとうございます。

「蓮如以前の本願寺」コンテンツ後半に書きましたように、蓮如前後の本願寺教団と時衆とはかなり関わりがあったようです。
ここで言う「時衆」は、厳密に言うと時宗的信仰を持ちつつも時宗教団の外にある人々の集団を指しており、戦国期においては地方により微妙に異なっていたと考えています。
そして北陸は時宗を組織化した2代他阿真教が力を注いだ地でもありましたから、その何世代か後の信仰を保持していた人々が、同じ念仏衆としての本願寺教団と関わりがあったのだろうと思います。

>「浄土真宗・真宗」なる用語は一切現れません。多くは「一向宗」という用語です。

この件については加賀でも同様で、近世加賀藩においても「浄土真宗・真宗」ではなく「一向宗」と記録されています。
加賀など北陸においては、本山‥手次寺(触頭)‥末寺の関係が明確になっていますから、「一向宗」と呼ばれていても本願寺系寺院とわかります。
しかもそれらのうちの何割かは『天文日記』等により、戦国期まで遡って確認がとれます。

当然、九州においても本願寺門徒の集団はいたと思いますが、要は彼らが本願寺門徒としての確認がとれることが前提になってくると思います。
公的に「浄土真宗」と呼ばれるようになったのは明治以後の話ですから、それ以前は好むと好まざるとにかかわらず「一向宗」と呼ばれていた宗教集団は、戦国期において「本願寺門徒の一向宗」なのか、それとも「時宗一向派の一向宗」なのか、ということなんです。

自分で考えても情けないくらいに細かい話なのですが、ここを明確にすることにより、本願寺教団が九州において、どの時期にどのように広がっていったのかがわかると思います。
よろしくお願いいたします。
 

時衆と、一向宗は別なもの

 投稿者:菖蒲  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時16分11秒
返信・引用
  投稿日: 2月 3日(土)15時43分54秒

 管理人さま。はじめまして。
現在、「一向宗禁制」の調査・研究をしていますが、もとは一遍の「時衆」を研究しておりました。若い頃は、『鎮西時衆寺院』という雑誌を発行していました。バックナンバーは行方不明となっています。それは、手書き、和文タイプライターで打ったものでした。
 それが、信仰に目覚めまして、我が家の宗派「浄土真宗本願寺派」の門徒であります。しかし、研究テーマは無宗派で、色々なことを調査・研究している昨今です。現在、手許に時衆の調査ノートがないので、不確実なことしか書けませんが。
 中世文書・日記などから見る限り、九州の一向宗は「本願寺門徒」と言えるでしょう。時宗は、「時衆・時宗」と所見いたします。「浄土真宗・真宗」なる用語は一切現れません。多くは「一向宗」という用語です。
 管理人さまが指摘の通り、蓮如が何度も「浄土真宗」と言っても、門徒の中には「一向宗」と俗称する者がいたのでしょう。それが、一向一揆などにより、遠く九州までも「一向宗」と呼称するようになった、と考えられます。
 それから、安土桃山時代まで。九州には、時衆・時宗寺院が多く存在しました。それが、一向宗の信仰と布教により、衰退し廃寺が多くなりました。江戸時代になると、「一向宗禁制」の国を除いて、一向宗の寺院坊が一挙に増加していったようです。
 いずにしましても、また改めて、書き込みさせて頂きます。最後に、私編『肥後国相良藩と一向宗禁制』・『一向宗禁制関係文献目録ー調査研究の歩みとその成果ー』など送付いたしますので、管理人さまの住所、送付先をメールでお知らせ下さい。よろしく。
 

九州の一向宗

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時14分16秒
返信・引用
  投稿日: 2月 2日(金)22時47分48秒

菖蒲和弘様、はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
九州の一向宗については、私も興味深く思ってきました。
というのは、長年疑問に思っていたのですけれど、中世九州の一向宗というのは、その全てがイコール本願寺門徒なのかということです。
ですから、むしろ私の方が教えていただきたいと思っています。

蓮如が何度も「自分たちは浄土真宗であり、一向宗とは違うのだ」と書いているように、おそらく当時は浄土真宗とは異なる「一向宗」が存在し、勢力を保っていたと考えられています。
これは鎌倉・南北朝期以来の遊行芸能民を中心とした一向宗徒と、井上鋭夫氏の論証した山の民・川の民によって広められた本願寺門徒が、はたしてそのままイコールと考えてよいのか、ということなのです。

私自身はまだはっきりとは考えがまとまっていません。というのも、私自身が遊行芸能民系一向宗についてはよく知らないからです。
昔読んだ本に、九州には時宗系の、つまりは遊行芸能民系の一向宗が存在したと書かれたものがあり、九州一向宗について私にはその程度の知識しかありません。
ただ一つ言えることは、戦国後期になって「戦国大名」というものが登場してくると、それまでの重層的な中世的領主制から単一的な地域支配に変化していき、その過程において地域支配に属していない遊行芸能民は排除されていったということでしょうか。

戦国後期になって遊行芸能系一向宗徒は本願寺門徒に吸収されたとされていますが、私としては、それ以前の「一向宗」の信仰形態を是非知りたいと思っています。
ご教示いただければ幸です。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

九州の「一向宗禁制」について

 投稿者:菖蒲和弘  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時12分8秒
返信・引用
  2月 2日(金)10時16分49秒

 はじめまして。「一向宗禁制」を検索していたら、このホームぺージがヒットしました。
以前、このぺージを覗いたような気がするのですが、なぜかしら、今までじっくりと読んでいなかったのです。今日、改めて読ませていただきました。
 管理人さまの「一向一揆」にかける情熱と、ホームぺージの内容の濃さなど、ただゞ敬服いたしました。これから、大いに活用させていただきます。

 ところで、話題は変わりますが。私は、肥後国球磨郡と薩摩・大隅・日向国の「一向宗禁制」について調査・研究をしています。室町時代、戦国大名の肥後国相良氏と薩摩国島津氏も「一向宗」を禁止しました。かれらが、なぜ一向宗の信仰を禁止したのか。詳しいことは分かりませんが、相良氏が禁止したのは永正年間。あるいは天文24年2月とも言われています。島津氏は慶長2年のことです。
 天文24年2月7日の「相良晴広様被仰候条々」(『相良家文書』所収)の中に、一向宗禁制に関する三か条があります。これによると、相良氏が領国拡大をする上で何より恐れたのが、一向宗門徒による一向一揆だったようです。また、一向宗のもとは「他方より来た候する」はふり(祝)・山ふし(山伏)・物しり(易者・陰陽師)・素人のきねん(占い・祈祷師)・くすし(医師・薬売商人)であると指摘しています。他国往来者の中に、一向宗の僧侶が紛れ込み、姿を変えて布教活動を行っていたのでしょう。そのため、彼らに宿を貸すことも堅く禁じています。

 江戸時代に入ると、全国でも①肥後国人吉藩②薩摩国鹿児島藩③琉球国の三か国が引き続き「一向宗」を禁止しました。そして、島原の乱後。一時的に、藩主また代官によって、一向宗の信仰と布教が禁じられた所があるのです。
 現時点で、私が確認しているのは、④対馬藩田代領⑤豊後国杵築藩⑥豊後国玖珠藩⑦豊後国天領日田⑧筑後国久留米藩⑨日向国高鍋藩などです。それも九州地方に集中しているので特徴です。しかし、この史実は意外と知られていません。(研究発表していない、からでしょうか)
 明治6年に①肥後国人吉藩。明治9年に②薩摩国鹿児島藩③琉球国の一向宗禁制が、解禁されました。昨年は「さつま開教130周年記念事業」が鹿児島・宮崎県各地で開催されました。私もその記念事業に多少なりとも関わることができました。
 今年は、私自身の記念事業として「解禁130年の歩み」をまとめてみたい、と考えています。「加賀の一向一揆」と「一向宗禁制」関係あることだけに、今後とも、よろしくお願いします。

 このような調査・研究の合間に、『一向宗禁制関係文献目録ー調査・研究の歩みとその成果ー』を改訂、刊行中です。目下、第89版。75ぺージ、平成19年1月1日、熊本・私家版。内容は、史料集・歴史史料・編纂物・調査報告書・図録・参考文献目録・雑誌論文目録(索引も含む)・データー・書籍・単行本・書評・研究論文・県市町村史誌・新聞記事・創作劇(台本も含む)・紙芝居・講演録音・パンフレット・ビデオ・CD・DVD映像・ホームぺージ・資料館施設・研究雑誌・広報誌などに分類、収録しています。一向一揆についても、参考資料として一部採録しています。
 

金沢城と金沢御堂

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時10分32秒
返信・引用
  投稿日:12月30日(土)16時50分56秒

最近、金沢城の発掘の進展に伴う調査報告が盛んに行われています。
そこで疑問なのは、金沢御堂に関する報告や遺構などが一切なされていないことです。
これまで金沢御堂の位置については、全く確証のないまま、金沢城の本丸部分にあったんじゃないかと言われています。
たとえ本丸部分ではないにせよ、たとえば御堂に隣接するような他屋など寺内町を窺わせる遺構があっても不思議ではないのに、その種の話は全然出てきません。

城内のいろいろな遺構が出てきているのに、一向宗関連の遺構が出てこないと言うのはとても不思議な話だと思います。
かつて井上鋭夫先生が金沢大学の教授だったときに二の丸部分を発掘したところ、藩政期の遺構しか出てこなかったために残念がられたという話を聞いたことがあります。

金沢という地名は本願寺証如の日記に初めて登場しますから、本来は寺内町だったはずなのに、その遺構どころか当時の町並みそのものが全くわかっていません。
このため、一向一揆時代の歴史は近世に抹殺されていると唱える研究者も少なくありません。

ただ、私自身はこの考え方に疑問を感じています。
だいたい近世初期の金沢の地形そのものもはっきりわかっていない現状では、歴史調査以前の問題だと思っています。
犀川・浅野川の流路、北国街道など交通路の比定、港としての宮腰・大野の存在、河北潟水運など、これからもっと考えていく必要があるのではないかと思います。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

御足跡、歓迎ですよ

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時09分27秒
返信・引用
  投稿日: 8月19日(土)23時23分13秒

入津森十郎風時様、はじめまして。

実は私も受験生の頃は年号覚えが最大のネックでした。
なにしろ数字が大嫌い!(^^;
今は大変とは思いますが、楽しい未来を信じて覚えてください。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

足跡としてですが。。。

 投稿者:入津森十郎風時  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時08分11秒
返信・引用
  投稿日: 8月17日(木)23時06分37秒

はじめまして。ただいま年号覚え中の受験生です。
興味を持たないことには覚えられないと思い、ネットサーフして此処に到っております。

これからこのホームページの中をゆっくり見物させていただきます。

まずTOPを見て驚いたことが一つ。
加賀の一向一揆って。。。百年も続いたんですか!!
吃驚です。刀狩のころまで続いたってことですね(年表がカンペ^^;)
 

Re:小杉氏について

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時06分21秒
返信・引用
  投稿日: 5月 7日(日)20時44分0秒

Kosugi様、はじめまして。

「1475 加賀国守護代小杉氏と争って勝利」の記事を拙サイト内と勘違いして、お示しのリンク先にやっとたどり着きました(笑)

「1475 加賀国守護代小杉氏と争って勝利」
まず、この記述はかなり不正確で誤解を生む文章です。
1475年は文明7年にあたりますが、実際は『白山宮荘厳講中記録』により、文明6(1474)年11月24日と記録されており、おそらく「1474」の打ち間違いだと思われます。

次に「加賀国守護代小杉氏と争って勝利」ですが、これも事実ではあるものの、実際の事情とはかけ離れています。
当時の加賀は冨樫政親と弟の幸千代が争っており、小杉氏は幸千代側の何人もいた守護代のうちの一人と推定されています。
以下は、小杉氏関係史料です。

奈良興福寺の『大乗院寺社雑事記』
「十一月朔日 (中略) 加賀国一向宗土民号無碍光宗、与侍分確執、侍分悉以自土民方払国中。守護代侍方合力之間、守護代こすき被打了。」
「十一月一日 (中略) 加賀の国の一向宗の土民、無碍光宗と号す。侍分と確執し、侍分ことごとくもって土民方より国中を払う(払われる)。守護代の侍方が合力のあいだ、守護代の小杉が打たれおわんぬ。」

白山比神社『白山宮荘厳講中記録』
「蓮台寺城十月十四日落了。打ルゝ人不知数。同廿四日、於小原山龍蔵寺白山拝殿、狩野入道・小杉腹キリ了。」
「蓮台寺城、十月十四日に落ちおわんぬ。打たるる人は数知れず。同二十四日、小原山龍蔵寺の白山拝殿において、狩野入道・小杉が腹を切りおわんぬ。」

小杉氏はここで冨樫幸千代派の守護代として同僚の狩野入道とともに奮戦し、冨樫政親派についた一向宗徒と政親派の守護代との連合軍に追い詰められて切腹したとされています。
この守護代・小杉氏については、詳しいことはまったくわかっていません。
長享2(1488)年の高尾城合戦に際して、政親救援のために越中から加賀に入ったとされる加賀牢人の小杉新八郎、また能美郡小杉村を本拠としたとされる一向一揆の旗本・小杉氏との関係も不明です。

幸千代派の人物ということで、おそらく南加賀が本拠だったのではないかと思われます。
今のところは、これぐらいでしょうか。
 

小杉氏について

 投稿者:Kosugi  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時04分20秒
返信・引用
  5月 7日(日)00時52分43秒

初めて投稿させて頂きます。
「1475 加賀国守護代小杉氏と争って勝利」
とありますが、小杉氏について詳しい情報をお持ちでしたらご教授お願いします。
我が家の先祖代々からの言い伝え(儀式)で、大晦日は大戸を閉めて過ごします。
「1475 加賀国守護代小杉氏と争って勝利」
と関連があるか知りたいです。
 

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