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切実な来世

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時03分4秒
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  投稿日: 5月 6日(土)20時45分28秒

真宗門徒は「弥陀の救い」だけを信じて他の神仏を拝まなかったため、神仏習合が当然だった時代、やはり奇異に見られていたようです。
その成り立ちを考えると興味深いものがあり、また、当時の人々の来世への願いがとても切実なものだったとわかります。
現代とはだいぶん違いますね。
 
 

分かりました

 投稿者:阿部チエ子  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時01分52秒
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  投稿日: 5月 5日(金)21時13分48秒

有難うございます。よく分かりました。親鸞以後、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな悪人、また女子供でも救われると信じて念仏していた者たちが沢山いた、ということですね。一部の階級の者だけでなく、難しい規律や修行なしで阿弥陀様に縋れば良いと単純に念仏して生きてきた庶民たちが一向衆なのでしょう。彼等に対して蓮如は負担を感じて布教したのであり、一向一揆に対しても宗教人としての良心に従って意見したのですね。
こちらでは、先祖たちは「一向かまわぬ一向宗」とあざけられておりました。その土地の風習などに習わず、捉われずに生活していたからです。そうした意味からも、たしかに加賀からの移住者は一向宗だったと言えると思います。お互いに一向宗と名乗っており、真宗徒と名乗ることは殆どありません。

また、何かありましたら質問させて頂きますので、よろしくお願いいたします。
 

Re:一向宗と浄土真宗

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)15時00分36秒
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  4月30日(日)22時31分43秒

論拠となっている神田千里氏の「加賀一向一揆の発生」を読んでいないので、正確ではないかもしれませんが、私の理解していることをお話します。

神田千里氏の説は、一向宗とは特定の宗派ではない専修念仏者の人々を総称したもので、この中には真宗に近い者や時宗の者もいたとされています。
「宗」という字を使うからわかりにくいので、これを人々という意味の「衆」に置き換えて「一向衆」とすると、よりわかりやすいかもしれません。
当時の宗教間の区別は現代同様あまり厳密なものでなく、特定の教えを信じているからその「宗派」の教徒である、というものでもありません。
時宗も専修念仏の宗派ですが、これがきちっとした組織としての「宗派」になったのはかなり遅く、それ以前は「時衆」と呼ばれて全国各地に散在していた集団でした。

つまりは阿弥陀仏への念仏を主とするものの、それ以外は他の仏神を拝んだり儀式をしたりと、絶対他力の阿弥陀仏だけを信じる蓮如系浄土真宗とは異なる念仏者の方が当時は多数を占めていたということです。
この部分は教義や宗教思想と言うよりも、むしろ歴史としての話で、そんな彼らに自分の教義を伝えることが蓮如の布教の根本だったとされています。

「七尾の歴史」様につきましては、早速メールいたしました。ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。
 

一向宗と浄土真宗

 投稿者:阿部チエ子  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時58分32秒
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  投稿日: 4月30日(日)20時17分1秒

有難うございます。本当に難しいので何度か読まないと理解出来ないようです。したがって質問も出来かねるのですが、一つ驚いたことがあります。37ページに「加賀門徒は、蓮如を崇敬するものの、その宗教思想は浄土真宗そのものでなく一向宗であった」とあります。今まで一向宗イコール浄土真宗と認識しておりましたし、当地ではそう理解されています。一向宗とはどんなものか、を教えて下さい。
また、「七尾の歴史」を教えて下さいましたので、開いて見ましたが、「感想などは掲示板へ」とのことなので掲示板に行きましたところ、投稿はいわゆる「18禁」ばかりなので、驚いて退散しました。その後私のPCにその筋のメールが30通も入り困っています。
「七尾の歴史」の管理人さんとお友達でしたら、そのことを教えて上げて下さい。
 

お答えにならないかもしれませんが。

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時56分32秒
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  投稿日: 4月21日(金)22時53分57秒
『勝興寺と一向一揆』は、かなり専門的な部分がありますので、私でわかることであればお答えしたいと思います。
どうぞ、お気軽にお訊ね下さい。

>火葬の習慣について

基本的に近現代になるまでは、火葬と土葬の両方が続き、メインは土葬でした。
ただ、確かに浄土真宗には火葬が多い、とは言われています。
また人口の多い江戸大坂京都の三都でも火葬が多かったとされています。

親鸞が火葬されたから火葬が多かったのではなく、元々は浄土信仰の人々が遺骨を堂塔に納骨する風習があったとされており、拙宅でも長い間祖父の遺骨を金沢東別院の納骨堂に安置していたことがあります。

真宗と火葬の関係は、↓能州奉行さんが詳しいと思いますよ。
「能州の都 七尾の歴史」↓

http://w2232.nsk.ne.jp/~jo9091/

 

火葬の習慣について

 投稿者:阿部チエ子  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時54分36秒
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  4月20日(木)20時41分30秒

「勝興寺と一向一揆」を読み始めていますが、素人で老人の私には難しい書物です。でも何とか読破したいと努力しています。当ホームページを参考に理解したいと思っています。
ここで一度お訊ねしたいことがあります。
加賀藩から北関東への移住者は浄土真宗の信徒ですが、土着民から迫害されたり差別されたりしていました。浄土真宗の信仰を固く保って、他宗徒と自ら区別していたせいでもあります。その一つに火葬の習慣があります。土着民は土葬ですが、移住者たちは山地で火葬にしていました。今では公的な火葬場がありますが、昔はなかったのです。
火葬の習慣は当然、加賀藩にいた時代からのものと思いますが、今日子孫の私達はその習慣がどうして出来たのか分かりません。親鸞が火葬だったから、とか親鸞が笠間に来る途中、流行り病に罹って亡くした子供を(その病気の故に)火葬で葬ったから、とか言われていますが。管理人さんは金沢にお住まいでは真宗に詳しいと思います。教えて頂けましたら幸いです。
 

津幡町地域

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時53分8秒
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  投稿日: 4月16日(日)21時46分57秒

嶋田様、はじめまして。
津幡は源平合戦の倶利伽羅峠で有名ですが、戦国期にはそれに加えた水陸の交通ルートが集中していて、いかにも交通の要衝といった地域ですね。
『官地論』にも高尾城合戦に関連した英田広済寺が出てきますし、鳥越弘願寺も津幡町にあります。
津幡町も山あり平野あり湖ありと地理的にはそれなりに広いので一概には言えないのですけれど、この農村だけに限らない地理的条件が、一向一揆が起きた一つの地理的モデルと言えるかも知れません。
 

苦悩した先祖の探訪

 投稿者:嶋田保博  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時51分59秒
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  4月16日(日)20時06分36秒

三代前に津幡を出て北方領土を移住体験し、今、岩手に住まいする者です。
津幡と蓮如、一揆について知りたく思っています。以降宜しく。
 

桂書房

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時50分58秒
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  3月29日(水)22時10分43秒

富山の出版社で、面白そうな書籍がいろいろあります。
『勝興寺古文書集』には戦国武将の消息などもいろいろあるようで、絶版にならないうちに入手したいですね。

『勝興寺と一向一揆』には、文明13年一揆の唯一の史料である「闘諍記」が所収されていて、私にとっても有難い本でした。
 

有難うございました

 投稿者:阿部チエ子  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時49分51秒
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  投稿日: 3月27日(月)20時27分30秒

ご本の紹介を有難うございました。早速検索をして見ましたら、桂書房に直接注文出来るということですから、近い内に注文いたします。桂新書にはもう一冊「天保の飢饉」に付いての本があり、これも読んで見たいと思います。天保の飢饉については先祖より聞いていましたので。
夏になっても気温が上がらず、稲は実らなかったそうで、人々は稲の茎を擂り潰して他の粉に混ぜて団子にして食べた、と伝えられています。この天保の飢饉が北陸農民の北関東移住に拍車をかけたようで、私の先祖もこの飢饉を体験した後の移住です。
また、余談ですが久保尚文先生は富山高校の教師で、私の知人は先生の奥様と或る高校で一緒に勤務されていたと聞いております。
 

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