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文明13年一揆コンテンツの本

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時48分41秒
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  投稿日: 3月26日(日)13時32分46秒

阿部様、はじめまして。
砺波地方の一向一揆については、
『勝興寺と一向一揆』久保尚文著 桂書房 桂新書Ⅰ 824円
という新書に詳しく書かれています。私のコンテンツもこの本がベースになっています。
桂書房は富山市内の出版社で、「地方・小出版流通センター扱い」になっていますから、ネット検索されると出てくると思います。
また、ご参考までに。
 
 

砺波地方の一揆

 投稿者:阿部チエ子  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時47分30秒
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  投稿日: 3月25日(土)16時31分36秒

はじめまして。私は茨城県在住ですが、先祖は加賀藩からの移住者です。江戸末期ごろで、私の先祖は加賀藩でも現在の砺波地方から来たことが分かりました。福野、福光、井口、あたりであることが分かりましたので、それらの町を調べて見ると、「一向一揆の中心地」と書いてあります。こちらに移住した者達から聞いて見ると「刀を一振り持って来た」という家があり、「四国にいたが追い出されて来た」という家もありで、移住者たちは真宗農民であっても、単なる農民ではない、と思われました。
それで一向一揆がどんなものであったか、を調べていてこのホームページにたどり着きました。砺波地方の一揆について、よく分かりました。有難うございました。
2年前に砺波地方を訪ねましたが、今度訪問する時はこのホームページの記事を参考にさせて頂き、先祖の出て来た土地を、そして彼等の苦労を偲びたいと思います。
これからも時々訪問しますのでよろしくお願いいたします。
 

『五木寛之 こころの新書』

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時46分16秒
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  投稿日: 3月18日(土)20時22分28秒

五木寛之氏の『信仰の共和国・金沢 生と死の結界・大和』を読んでいます。
もともと金沢に縁が深く、また蓮如についての著作もある氏の一向一揆本はなかなか面白く、かなり読みやすい本です。
特に高尾城合戦を氏が金沢で体験された「内灘闘争」と対比させて熱く語られているのは一つの卓見だと思いました。
ただ、長享2(1488)年の蜂起と昭和28(1953)年の反米基地闘争とを単純に結びつけるのは、かなり危険な気もしています。
これは私自身が、「加賀一向一揆は日本史に輝く自治共和国だ」なんて全然思っていないからで、その意味では私の方にも偏見があるからかもしれません(笑)

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

気長にお待ちください(笑)

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時44分53秒
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  投稿日: 3月11日(土)14時06分2秒

そのうち列伝コンテンツでも作ってみようと思っています。
ただ、それがいつになるのかは、当の私も不明です。
気長に待っていただいて、気が向いたらWeb検索してみて下さい。
 

(無題)

 投稿者:七里  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時42分36秒
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  投稿日: 3月 9日(木)00時45分10秒

重ね重ね有難うございます。病院勤務をしておりまして「ご出身はどこ?」と名前を見て度々言われる事が多く、私自身も大変気になっておりましたので、これを機会に勉強しようと思います。
 

訂正

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時41分21秒
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  3月 8日(水)22時54分11秒

舘山翁→舘残翁 でした。
 

活字化された史料

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時40分17秒
返信・引用
  投稿日: 3月 8日(水)22時52分14秒

七里頼周は加賀一向一揆史の中でも有名人の方ですから、まだわかる方ですね。
彼関係の古文書もいくつか活字化されていますから、また参考にして下さい。
『冨樫氏と加賀一向一揆史料』舘山翁 著 巌南堂書店
 

有難うございました!

 投稿者:七里メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時39分13秒
返信・引用
  3月 6日(月)22時57分34秒

管理人様
詳しいお返事有難うございました。ご紹介頂いた本探してみようと思います。
 

七里頼周

 投稿者:管理人:六郎光明メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時38分8秒
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  3月 4日(土)22時27分20秒

七里様 初めまして。
おたずねの人物は、対信長戦の頃に本願寺から金沢御堂に派遣されてきた七里頼周だと思います。
史料によって呼び方に若干違いがあるのですが、七里三河法橋頼周と言われています。以下、ご参考までに。

三河というのはおそらく受領名の三河守、法橋は僧侶の官名の一つです。
本願寺には僧侶の他に坊官と呼ばれる半僧半俗の集団があり、この筆頭が下間氏で、七里頼周は中級坊官とされています。

北の上杉、南からの朝倉、織田の圧迫を受けた加賀一向一揆支援のため、本願寺は天正元(1573)年11月、加賀一向一揆の司令部とも言うべき金沢御堂に七里頼周を派遣します。
それまで金沢御堂のテコ入れのために何人かの坊官が派遣されていますが、頼周もまた一向一揆への指導強化のために送られたと考えられています。
彼らは宗教的な指導者である「御堂衆」とは異なり、加賀においての外交や軍事など俗権を司っていました。
実際、天正2(1574)年、越前一向一揆が成立したとき、七里頼周は他の坊官とともに府中あたりを任されており、外交軍事のみならず行政も任務としていたようです。

しかし天正3(1575)年、越前一揆が信長軍によって滅ぼされると、本願寺はそれまで敵対していた上杉氏と和議を結ぶという方針転換を行いました。
この方針に沿って上杉との和平交渉を進めていたのが七里頼周です。
ただ、彼は在地の主勢力であった加賀旗本衆に相談なく事を進めてしまい、それまで法敵上杉と思って戦っていた旗本衆から強烈な反発を買い、彼らから本願寺に弾劾されてしまいます。
本願寺は上級坊官である下間頼純を派遣し、事態は収拾されて一揆は上杉とともに信長軍に対抗することになりました。

この後、加賀から手を引いた上杉軍の後を襲った信長軍によって金沢御堂は陥落、加賀一向一揆は崩壊するのですが、その前後、御堂坊官としての七里頼周の動向は不明です。
ただ、元禄9(1696)年の史料に「七里三河守下向七里大二郎先祖」とあり、その頃の金沢広済寺(もと「御堂衆」)が七里頼周の子孫としての七里大二郎という人物を知っていることから、その時代まで子孫が続いていたことが確認できます。

かなり断片的なのですが、これらのことは以下の本に書かれています。
『一向一揆の研究』井上鋭夫著 吉川弘文館
『一向一揆論』金龍 静著 吉川弘文館
『蓮如一向一揆 日本思想体系17』井上鋭夫 笠原一男編 岩波書店

また、飛騨高山の照蓮寺さんには七里頼周の書状が展示されています。
私もそこで初めて頼周の手蹟を見ました。
 

初めまして

 投稿者:七里淑子メール  投稿日:2008年 8月 9日(土)14時36分49秒
返信・引用
  投稿日: 3月 4日(土)14時58分9秒

七里と申します。結婚して七里になったのですが、姓についてずっと知りたいと思っていたら七里周頼という人物にたどり着きました。一向一揆に関わった人物だそうですが、詳しくは解りませんでした。ご存知であれば教えて頂けますでしょうか?

http://powerforce.moo.jp/

 

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