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問題の所在

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 4月 3日(月)01時14分34秒
  大学院重点化はポストを増設する(ための)ものではなかった。学位取得者を増やしたこと、学位取得者の増えたことが、ポストを増設する根拠にはならぬことも、よく考えれば──いや、考えるまでもなく──判ることである。

寧ろ、ポストを増やす余裕もないのに、学位取得者の増加を将来する大学院重点化を構想し、実施したことに問題があった。そんなことは重点化前に判りきっていた。それを今になって騒ぐのは如何なものか。あの時に騒ぐ者がほとんどいなかったのもどうかと思う。

「エリート主義」「象牙の塔」といったレッテルが貼られることを懾れていたのだろうか。しかし大学がエリート養成機関であり、大学院もまたエリート養成機関であることは否みようもない事実である。大衆化を「開放」(「解放」)と言い換えてみても始まらないし、枉げて題目を実体化し、実際に大衆化をしようものなら、大学が大学の体をなさなくなる。それが道理である。御覧の通りである。

輿論は何を求め、当事者は何を言い募るのか。その裏と表を検めてこそ、大学の再生の芽が見つかる(可能性がある)。エリート(たるべき者)がエリートであることを否み、大衆の一員を装う(本能的、かつ伝統的)欺瞞が斯様な事態の拗れを齎す。人文学に携わる者が己の専攻を尊び、以て人文学の意義と効能を称えるほどに、人文学の無用が浮き彫りになり、人文学の本分が毀損される構造的な矛盾と通じる所がある。その自覚が解決の緒となる筈なのだが、この点に着目する者が少ない。少なくとも、着目していることを伺わせる者は稀である。
 
 

花相似

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 3月31日(金)00時40分48秒
  三十日木曜青天晴、職場大廈前。枝垂れ桜が大分花開いてきた。その昔、組織の長が高崎辺りまで出向いて探し回ったという数株の間を歩き、五分咲きの花を透かして大廈と、その上に広がる天を仰ぐ。

この組織にはやはり花、そして桜で殊に枝垂れをと拘り、丹精した主は既に亡い。今、その立場にある仁が、組織宣伝のジャンパーに身を包み、玄関を出て、忙しげに枝垂れの様子を閲し、講堂の方へと消えていく。花を見上げてスマホを翳す通行人はその仁に目も呉れず、只ひたすら、殆ど白色の花びらに見とれていた。

年々歳々の句を想い出す。それが真理である。組織とは「誰が」や「誰の」ではなく、「何のために」であることも、今日、花の下に佇み、長の姿を眺めて骨身に沁みる。俗なところ、ハードな方角から「もののあはれ」を感じる一時であった。
 

誰しも自分が一番で、人には口がついている

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 3月22日(水)11時29分44秒
  不平を喞つのは簡単である。非を鳴らすのも簡単だ。誰しも自分が一番で、人には口がついている。

動くのはそれほど容易くはない。決心が必要だ。動けば一皮むけた気もするし、充実感を味わうことになるのも、そのせいである。

動かすのはとても難しい。誰しも自分が一番で、人には口がついている。動き、動かす手筋がおかしいことも、よくあることだ。

幸いにして事が動き、素志が叶った後には、己に不平を喞つ者が必ず出ることを知るだろう。誰しも自分が一番で、人には口がついている。

さきはう資や因の存在は限られ、偏り、享けようとする者の数は膨大に遍在している。幸をめぐる感性を磨き、深めて、資と因を最大限に活かさねばならない。同時に、当代の不足を次代に補い、世代を跨いで均霑を仕組む必要もある。

活動家の蹉跌は「いま、ここ」に集中する短慮と傲慢に起因する。文化の熟否と国運、世界の進展の成否は、その超克にかかっている。誰しも自分が一番で、人には口がついている。決して難しいことではない。
 

大義務の三分の一を果たし切る集大成にしたい

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 3月13日(月)15時45分41秒
  確定申告の書類を調製した。提出期間が俄然忙しくなってくる時期に被っているので、周りにも迷惑をかけ、自分もフウフウ言いながら、背を丸めて小さな書類を作ることになる。毎年のこととはいえ、どうにかならぬものか。

午前中に出しに行き、午後も有意義に書見(や、雑務)に邁進するつもりが、案の定、だらんこだらんこしていて、書類の出力が十五時過ぎ。役場に出向くのは明日にした。
 

色目

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 3月 3日(金)09時37分30秒
  否、瑠璃色というよりも、青天の文字通りに近いと形容すべきかも知れない。仕事や勉強に使える時間は須臾にも満たないけれども、心に鳴るものを覚える朝である。  

青天の瑠璃色

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 3月 3日(金)09時34分36秒
  水曜夕方から断続的に舞っていた煙雨、細雨、濛雨、疎雨も明け方には上がったか、濡れたアスファルトが黒く光り、用水脇の砂利道に大小の湫隘が青く耀く快晴。青天故にか、雨のためか、肌には潤んだ風が涼しく、それでいて太虚は瑠璃色一色、茶畑の彼方に浮かぶ富嶽は、三月の声を聴いてなお大きく、高く、そして愈々白く聳えている。  

一筆箋に復す

 投稿者:元夏迪  投稿日:2017年 1月 6日(金)16時57分32秒
  種々渋滞する日々を消しながらも、一つ一つこなして行く覚悟と諦念と闘志を養い得た平成二十八年を見送り、地道な二十九年を迎えて掲示板「恭頌新禧」は「一筆箋」に復し、平常運転へ。  

今昔彼我

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年12月15日(木)03時06分40秒
  チューリヒに出かけた友人が、夜の町を撮影して送ってくれた。冷たい夜気が映り込んでいる。遠い昔、まだソ連上空を飛行できなかった頃、親父が珍しく海外出張だというので、アンカレジを経由してチューリヒまで往復したことを想い出す。土産は水彩クレヨン(water-soluble)三十色(ぐらい)だった。今でもどこかにしまってある。探して下手な絵でも描いてみようか。そんな心持ちに襲われた水曜であった。  

待つ

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年12月 9日(金)09時18分27秒
  昨日の放射冷却に上駒、羅の雲が迸り、棚引く午後に退勤。その上天は今朝方にも居残り、やや寒い快晴を連れてきた。所用で懐かしい橋のたもとまで歩き、馴染みのドトールで一服。  

初雪の霜月

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年11月24日(木)06時32分23秒
  雪だ。予報が当たったか。たっぷり水を含んで、大きなのが重そうに、足早に落下している。空が汚らしい。上駒、ディダスカロス、ディダスカロス。  

冷え込む日々

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年11月10日(木)06時40分6秒
  陰から快へ。そして凩一号。上天らしい昨九日水曜はレクチャラで降営。珍しい日程で動き、帰館。午睡。

本日木曜陰寒。茶畑の彼方の雲が横一列に黄金色。日が昇っている。風が強い。上駒してディダスカロス、ディダスカロス。
 

立冬

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年11月 8日(火)13時39分28秒
  昨七日月曜、歩いてバスに乗って汽車に乗る。登営して道中を思い出しながら「旻天快晴寒風」などと名表右上に書き留めたら、どうも立冬だったらしい。演習、ディダスカロス、マギステル。

降営時に大廈一階では「情熱大陸」という曲を弾く稽古のピアノが響いていた。楽祭の始まりである。座って訊いてみたい心持ちを押さえ、暗くなった通りに出ると、硝子越しに見る会場が眩しく、外の闇の玄さが目に冴え冴えと。立冬と聞き、道理でと思う。

明けて八日火曜。歩いて、昨日よりも遠く、喜平橋からバスに乗り、汽車に乗る。登営の道中はいよいよ寒い。家を出た時には多少陽の気配が漂っていたけれども、千代田に昇る頃にはそれも失せ、只管陰。この時期を抜けると放射冷却である。

演習。
 

掲示板の時代

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年11月 6日(日)13時58分3秒
  一筆箋が間借りするteacup.所信を読み、安堵する。  

甲斐国

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年10月22日(土)22時40分24秒
  旧い国に来た。甲斐国である。

俄かに思い立って汽車に乗り、甲府の一隅に隠れる一夜を過ごしている。音に聞く要害温泉に湧く湯にも、期せずして浸かるを得た。

今は人影も絶え果てた帳場脇のロビィに降り、独りソファに身を埋めて用務通信の有無を確認している。

ふと、遠く山の香を聞く。流石は山国だ。鼻腔の奥の奥に、幽[かそけ]く、淡々しく染み入ってくる。

そんな幸せを当たり前とばかりに、甲州の大盆地も、町も家並みも寝入っている。この静けさ、閑かさは、甲州の天もまた、木々や山肌、巌の馥郁を歯牙にも掛けずに眠りこけているからこそのものなのか。

いや、これは自足の深い悦びの滲む閑寂だ。武州とは形を変えた天がそう言いたげである。

冷えて来た。室に戻るか。
 

僻陬の床しさと歓び

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年10月18日(火)13時18分50秒
  旻天に所用で懐かしい橋まで歩く。日常的に車を走らせる界隈ながら、狭い路地裏や上水堤を覆い尽くす樹陰の天然隧道を歩くとなると、車が邪魔で、往時の気分を反芻しつつ徘徊する機会は存外乏しい。鼻紙と電球二基が切れていることを思い出し、所用先から行きつけのスーパーまで脚を伸ばすことにして、秋の光を浴びて旧居の周りを歩く贅沢を味わう。馴染みの店で昼を認めながらこれを記し(無料WiFiの恩恵である)、弊廬までの復路に備えている。この先も気楽な道程である。
 

便所虫

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月30日(金)16時49分41秒
  いましがた「二階の便所に虫がいる」といわれ、何を莫迦なと覗いてみたら、体長三糎ほどの茶色い塊が水面で藻掻いている。いても胡麻粒ぐらいの、と高を括っていたから驚く他はない。

ちょうど使い切ったトイレットペイパの芯が目についたので、これを使って筒の中にすっと掬う。薄暗い便所から、露台の上へと運び、下ろしてみると、腹を下に一息つく緑の背中は、カナブンの成虫である。

ここに放置していても、弱ったまま死ぬかも知れない、ならばせめて庭に放し、何とか生きる道を探って欲しい。それが叶わぬならば、土の上で死ぬことだ。そんな料簡で再び筒に入れて、階下へと運ぶ。庭の紫式部に隠れた下草に離そうとしたら、芯にしがみついて出ようとしない。どうにか草の上に移したのが良かったのか悪かったのか、それは判らない。

それにしても、どこからあんなに大きな虫が入り込んだのか。よりもよって、二階の便所の水面に転落して溺れていた経緯は。当惑するばかりである。
 

更地は嫌い

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月30日(金)16時43分23秒
  追分の脇に大きな更地。屋敷林に守られた農家は消えた。見通しがよくなって、寒々しい。

北の植木畑にも重機が入っている。大きな街道の交差点に近い一角の植木が根こぎにされて積み上げてある。水色の金網も倒してある。生産緑地の標柱は色が褪せただけなのか、文字を消したのか、とにかく無残な鉛白が眼に沁みる。

中途半端な農地──というより、半ば抛棄された農地が更地になるのを見ると、心が騒ぐ。事情は分かるが、色々と思うところもある。こちらがそういうことの身に沁みる歳になったからだと言って済ませることは出来ない。
 

訂正

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月25日(日)00時54分52秒
  ×検査とは有難いものである
○検とは有難いものである
 

月餅

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月24日(土)20時23分50秒
  同僚に月餅を戴く。毎年戴く。今年は長春金安大飯店の台湾抹茶月餅である。口に含むと、鼻腔に華やかな香が開く。

四ッ谷駅前で働いていたあの頃、時々月餅を買った。専門店があった。泰祥製菓という。後にも先にも、自分の生活圏で月餅を専門に作って商う店はここだけである。

戴いた月餅を頬張りながら、泰祥製菓を思い出す。名前は忘れていた。検索の世話になる。四ッ谷、月餅。簡単に見つかる。泰祥製菓といったか。そうだった。やはり月餅専門店は珍しいか。

廃業していた。

あの懐かしい月餅を味わうことはもうないのか。先の見えない、貧しいあの頃、愚妻と分けて食した、あの月餅を。

秋の雨の宵にしんみりしていると──検査とは有難いものである。まだ「その次」があった。zuco 明日のおやつが実家の泰祥製菓の味と製法を継承して、月餅の販売をしているという。しかも、文京区に拠点を置いているという。

なお己に縁故の深い土地に月餅を求め得る不思議に、身の幸せを思う秋雨の夜である。
 

驟雨が来た

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月24日(土)13時15分18秒
  俄に驟雨が来て、頻りと雷が落ちている。雨粒が天地を罩て、軒端は烟り、夕霞堂の窓外の露台は鏡のように照っている。武州在、古の新田の秋である。  

政治を見る

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月15日(木)15時19分52秒
  操觚界頼みのお茶の間評論家や悲憤慷慨の知識人が世を掩っている。民進党はメディアが持ち上げるほど立派な党派ではない(常識があれば、すぐ判ることである)。むしろ、その反対に近い。とはいえ、国会中継を見ていると、「その反対に近い」から「酷い」と飛躍するのが短絡であることも判る。それほど酷くはない(一筆箋で折々指摘した通りである)。同じことは自民党にも当てはまる。否、ほとんどの党派に当てはまる。したり顔で「角度をつける」報道(歪曲)を鵜呑みにして事を論じる前に、手間と暇を惜しまず、まず国会中継を視聴し、党派の出す情報を検め、個々の人間の動静を眺めるところから始めるべきである。  

渋面の愛嬌

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月15日(木)14時04分36秒
  「パンドラの匣を開けてしまった」という譬喩は、事態の深刻化を見越し(て、一層の悪化を期待する気持ちも罩)て使われることが多い。眉根を寄せて書き付ける人は、良心の疼きを覚えて書き、書いて良心の乾きの癒されるのを感じるのではないか。「いい人」の愛用句と言ってよい。

ただ、本当によいのだろうか。

パンドーレー(パンドーラー)とは禍である。少なくとも、曲[まが]として作られ、贈られたものである。「いい人」はジェンダバイアスを事とするのだろうか。彼らが(今)最も忌むところではないのか。

七難八苦を撒き散らした匣の中にはエルピスが残ったという。「希望」なのか「見込み」なのか。とまれ、この譬喩を愛用する人々が警鐘を鳴らそうとして、却ってその不要を匂わせることになるのも、「いい人」の人の良さと言うべきか。
 

村田蓮舫議員騒動

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 9月12日(月)13時46分44秒
  道義的責任とやらを口にし、振りかざしたことのない者だけが、村田蓮舫議員を擁護することが出来る。しかし、擁護しようとする者は、恐らく道義的責任を愛用しているように見受けられる。

なお、この問題は、一村田議員の政治生命に関わるというよりも、現代日本の隅々にまで染み入っている各種言説と、それが作り上げている言説空間の姿と矛盾が露呈しているところに意味がある。そうした言説と言説空間が作り上げる現代日本の問題が噴出していることに意味がある。そしてその全てを矮小な褻語で糊塗しようとすることと、そのおかしさに思い至らぬことに問題がある。
 

続報に俟つ(までもない)

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月21日(日)23時40分3秒
  ガッツポーズで腹を切った話を聞かない。かといって、金メダルをとって「喝」を見返したというような、操觚界好みの見出しも見ない。要するに負けたのだろう。どうするのだろうか。  

不健全

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月16日(火)23時19分10秒
  五輪も甲子園も見ずに消光している。テレビ受像器が映らないからでもあるし、ラジオも聞かない、新聞も取っていないし、ネットのニュースで見出しを見ても記事を読まないという塩梅で、まあ見ない。

しかし、目についた記事がある。勝利のガッツポーズをした、それにケチをつけた、それに反論した──実に他愛のないことだけれども、その反論がとても気になる。「命を賭けているので」。

譬喩だろう。しかし、譬喩だと、反論の根拠としてはとても弱い。とても頑張っているんだから、勝った時ぐらい、ガッツポーズを許してよ──これでは反論にもなっていないと言うべきである。

負けたら腹を切る、首を刎ねられる、そういう中で、また一勝積み重ねて、生き長らえた喜びの表現として、ガッツポーズには特別の意味があるのだ──これならば問題はない。早晩、発言者は負ける。どうするのだろう。

譬喩であれば意味がない。しかし、譬喩でなければ、己の首を絞めることになるばかりか、競技に続く者に、そういう生き方と死に様を強いることになる。いや、既にその手の無意味な精神主義は競技の世界に充満しているといえようか。その辺りの問題や機微に鈍感であることも「スポーツマン」や「アスリート」の特徴と言えるかも知れない。だとすれば、本朝の該方面が抱える闇と問題を凝縮した遣り取りであり、発言であると評さざるを得ない。
 

隠微な追及

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月11日(木)16時41分4秒
  外務省が機敏に動いている。尖閣海域の中国漁船転覆事故で救難捜索活動をし、北京に感謝された由。それを逐一発表している。国語と英語である。事故を起こしたのがギリシア船籍の船であり、そこからの通報で海保が動いていることも最大限に活かしている。

言うまでもなく、施政権の所在を明らかにし、国際的な判断を蹂躙する中共政府の無道を満天下に訴え、先方が勝手に振り上げた拳を絶対に下ろさせない、しかも放っておいても面子は潰れるという局面に追い込んでいる。

行立は事故を奇貨としている。しかし、飽くまでもそれは切っ掛けだ。日米が俄に連携と聯動を強めていた矢先なればこそと読むべきである。合衆国国務省は「事態を監視する」「尖閣は日本の施政権下にあり、安保対象に含まれる」と間髪を置かず発表し、あるいは繰り返している。合衆国政府のもの言いが本朝政府に行き届いた配慮の上に出るものであることにも注意するべきである(北方の動きに対する布石でもある)。

今の日本は有利な局面にいるけれども、周りに地雷原が犇めいているのがその一因であることを忘れてはならない。危うい局面にいるつもりで周旋し、事に当たるのが得策である。そして世間がそのようなことを真正面から取り上げて議論するようなことのないように事を運ぶ筈だ。
 

照るも陰るも降るも晴れるも

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月11日(木)11時45分39秒
  昨水曜、街道を少し西に下ったコメダ珈琲で読書。コメダ自体、初めて。アイス珈琲を「たっぷり」に願ったら、慥に巨大なコップになみなみと。

空模様が怪しい。買い物を済ませ、上水沿いの草刈り作業も終わっているのに、なぜかまだ混雑している街道を急ぐ。ベランダの洗濯物を取り込んだところへ、大雨の予報。そして時期に凄まじい驟雨と、大雨洪水警報。夜分の歩行は見合わせた。

明けて十一日木曜、その雨の御蔭で随分と涼しい曇り空。可燃物ゴミを出し、身支度を済ませたところで「今だ」と庭仕事の続きを少々。ビニール袋いっぱいに枝だの草だのが溜まったところで、雲居の彼方より日輪が輝き出でる。汗ばみ、切り上げて茅屋に入る。
 

尖閣舞蠅

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月10日(水)10時37分42秒
  「中国」を字義通り読むにしても、「中華(人)民(共和)国」の略称と取るにしても、「固有の領土」とは無縁の存在で(なければならないので)はないのか。それを指摘する向きがないのは遺憾である。  

夏の闇に想い出す

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月 9日(火)01時20分11秒
  夜陰に紛れて二里の道を踏む。上水を今は西に下る。蜩も聞こえた。狭山丘陵では優に半月以上前に啼き始めていたものを、上水の滸では今宵聞き初める。

所々で街灯が地面に小さな輪を落とす。さして多くはない。簡易ヘッドランプを手放せない。一番眩いのは踏切である。幅員は極端に狭く、線路まで急勾配で上り、下る。踏切灯に照らされたその瘤は、遠くの闇の中からでもぼんやりと見える。

ふと、白粉花の香りが鼻を擽る。闇の中から踏切を跨ぎ、隣の駐輪場の眩しい灯りからまた闇の中に沈み込む直前に、色の脱けきった白粉花と葉が目につく。油蝉が落ちてくる。仰向けに地面へと叩き付けられ、ギギギ、ジジと鳴る。鳴くのではない。鳴る。

朝、可燃物ゴミを出しに行く時、隣家のガランとした駐車場に、今夏初めての骸を見た。まだ死んだばかりらしく、完全な姿で腹を上に向けている。時々甦ってはじたばたして、また死んで、という最中であったかもしれない。つい先日、きれいな蝉の脱け殻を見つけて喜んだばかりだというのに。

毎年、夏もこの頃になると、生を思い、死を想い、生死を惟うようになった。命の耀く夏だと想っていた少年時代が遠くなったのであろうか。すぐに盆だ。
 

勅を承る

 投稿者:元夏迪  投稿日:2016年 8月 8日(月)20時46分22秒
  勅はどこまでも公に貫かれていた。これを聴いた「声」は私が発し、勅にはない「私」に向けられていた。国内外のメディアはこの辺りをきちんと弁別していなようである。「これまで八日は何もない日であった」で指摘した公は、早速(竊かに)喫緊の問題となった。

政界の面々には流石に公の詞が通じたらしい。反応も公に沿おうとしたものが目立つ。幸い、今回は事が事なので、報じる側にもいつもの「味付け」を控える動きがあるらしい。国会で見る彼らの姿に近い言葉が世上に聞こえている。
 

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