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固有名詞は最初に消える

 投稿者:元夏迪  投稿日:2019年 3月12日(火)01時20分56秒
  固有名詞は普遍を透視し、背後、或いは基盤を眺めるための手がかりと考えてもよいのではないか。言語獲得、あるいは人類の発達を基準にすると逆転しているかに見えるけれども、言語で生きるよう構築されている以上、自然な道筋ではないか。いや、言語初発の段階で生じたと想像される名指す行為においては、対象が木であっても、その「木」が普通名詞であるか、固有名詞であるかは分明ではなく、寧ろ、その時、その場に立っていた、いつものあの木という、極めて個別性の高い存在であったのではないか。ならば、固有名詞に近いものとして名指しされたのであろう。固有名詞から普通名詞へと分け入る段取りもは、そうしてみると強ち無茶苦茶な手続とも言えなくなるのではないか。  
 

凡庸のことば

 投稿者:元夏迪  投稿日:2019年 3月12日(火)00時01分36秒
  固有名詞をめぐる知識が増えても、それまでのことである。固有名詞を動かすもの、固有名詞で動くものを見極めること、極端に言えば、固有名詞を全て篩い落とす、あるいは固有名詞を全てくぐり抜けるといった道のりの彼方に、本当の目的地が広がっている。なのに。  

凡愚のことば

 投稿者:元夏迪  投稿日:2019年 3月11日(月)22時51分37秒
  学統を成す者が学統を言うことなく、学統を言う者が学統を成すことなし。学問は学統によることなきにしもあらざるも、学統は学問に非ず、学統研究も学問そのものに非ず。人生を消尽して顧みざる者のみ、独りよくその業に従う。  

表裏一体の心事を描き出す

 投稿者:元夏迪  投稿日:2019年 3月 5日(火)01時36分48秒
  Pride and Prejudiceは高慢と偏見でも自負と偏見でもない。「とand」が添加並列なのか二詞一意hendiadysなのかも問題である。いや、それが問題ではなくなる様子を描き出すのが、この作品の妙諦であろうか。そのためにも、parh/xhsisは不可欠である。  

名称復旧

 投稿者:夕霞堂隱士  投稿日:2019年 1月 5日(土)09時47分54秒
  平成三十一己亥年(西紀二〇一九)も明けた。各位の清穆を賀しつつ、掲示板名称を「恭頌新禧」より通常の「一筆箋」に復す。  

名称変更

 投稿者:夕霞堂隱士  投稿日:2018年12月31日(月)13時40分42秒
  吉例に傚い、「一筆箋」を「恭頌新禧」に革めて新年を迎える仕度とする。  

臘月も押し迫り

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年12月29日(土)11時00分50秒
  上快。隙間時間に裏手へ回り、茶畑を睥睨する富嶽を望む。白皚々、無限の蒼穹を圧する冬の絶景。戻って庭の小紫の剪定。  

言葉が言葉で言葉の言葉を

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年12月21日(金)17時14分49秒
  下記投稿記事を読み直す。「のない世界」という言葉が存在(と欠損)を作り出すのを目の当たりにして、些か戦き、些か驚嘆している。

この手で打鍵し、変換した言葉だとはいえ、言葉はそもそも自分のものではなく、自分がつくるものでもなく、むしろ自分をつくるものである。──そうか、「のない世界」は不佞を以て言葉がその本領を垣間見せたということか。

それを啓示と呼ぶ人や文化もあれば、それを法と呼ぶ世界もあるだろう。言葉自体は時間の中で形成された歴史的な存在であるけれども、その言葉が自らの限界を大きく踏み越える瞬間を目にして、人はその不可思議に立ちすくんできたのであろう。

たとえそれが言葉と認識の問題に過ぎず、存在もまた認識の対象というよりは方法、様態であるとしても、人間存在と称すべきものの秘密を曝露していることに変わりはない。寧ろ、だからこそ人は驚嘆し、戦いて来たのではないか。宇宙や世界を説/解き明かすものならば、ここまで戦くこともあるまい。
 

のない世界

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年12月21日(金)14時06分3秒
  慣れるものである。そういうものだと言えばそうなのかも知れない。恐ろしいような、安堵するような。

『こち亀』のない世界を創造するのは難しかったけれども、『こち亀』のない世界に何の違和感もない。そもそも世界とは『こち亀』がないものであり、なくて当然であり、あったところで直にこうなるものであった──。

ただ、今ふと思い至るまで、その欠如、喪失に目が向かなかったことは、やはり少し恐ろしい。安堵とは恐ろしいものなのであろうか。

覚えている自分と忘れ(られ)た自分。世界とは自分がいないものであり、いなくて当然であり、いたところで直にそうなるものである──縁起や空に結びついて、ようやく腑に落ち、安堵する。忘却の力を目の当たりにする師走。思い出すことの多い臘月だからこそ。
 

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年11月22日(木)09時48分2秒
  頭の中を広くしておきたい。そのためには考えて、書いていることが大切である。書いて、考えるためには頭の中を広くしておかなくてはならない。  

時間がないから

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年11月22日(木)09時45分0秒
  曇っている。寒い。用水の滸を往復してきた。通水が途切れている今、川床に積もる黄葉、紅葉。上を覆う桜樹にはまだ青い葉が残る中、賑やかな用水が目には黒々。

昨日は長く、昨夜も遅かった。今日は駒祭前の休暇で時間がある筈ながら、とにかく時間がない昨今、登営することに。

だからこそ、その前に展観を一件の寄り道を。絲綢之路関係の会期が果てかかっている。仕事に絡むから。二十四日のウズベキスタン発掘報告に行けない分。そして何より自分が見たがっているから。
 

上天

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年11月22日(木)02時02分3秒
  二十一日水曜の朝は寒かった。放射冷却の到来である。茶畑の彼方に浮かぶ富嶽の巨影の白さ、青さが目に染みた。登営すれば、北の丸、千鳥ヶ淵の上空を貫く視線の涯に青みを増して佇む富士の高嶺。上天。  

老来不自由かつ自由

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年11月21日(水)02時45分27秒
  昨日の自分は今日の他人。十年前は寝ても頭の土俵は崩れなかったけれども、今は起きていても頭は真っ白。寝ないからではなく、加齢である。頭の中が狭くなったと思う一方、土俵が(保持でき)ない分、勝手気儘、野放図な思考と闊達な感性を楽しめるようになって来た。何を見ても考える。何を見ても感じる。  

万古不易とは

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年11月21日(水)02時04分33秒
  「何が愉しいんだろう」と昔は思ったことが、確かに愉しい、嬉しいことであることを知る身の上の老いを知るのも愉しいことか。昔は空に梯をかけるようなものだと呆れていたことが、実際に梯がかかってみると、世界の不思議だと思う一方、当然の道理だと感じもする不思議。  

発見

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年11月19日(月)18時33分38秒
  視力の善し悪しに気がついている人と、気がついていない人と。そのような事実に気がついていなかった身の至らぬことを慚じつつ、己の視力が悪くとも、それを悪いと感じ、見えている人の視力に感歎することくらいは出来る筈なのにと驚きもする。器か。君子は器ならず。その器ではないか。  

一気に冷え込む

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月23日(火)11時40分35秒
  二日続けて富嶽を拝んだ。久方ぶりに見る山容は既に冠雪。朝に夕に日を浴びて輝き、太虚に溶け込まぬばかりであった。台風、雨の後にしばらく途切れた用水にも澄んだ流れが戻り、喜びと嬉しさは一層募った。

今日は曇天。冷える。用水も黒みを帯びている。千代田城脇で地上に浮上すると、ひどく寒い。見れば足下の路面が光っている。いつの間にか雨が通り過ぎたらしい。白秋の輝きが一夜にして玄冬の沈鬱に変わったか。尤も、武州の上天は放射冷却に燦めく季節でもある。
 

控えめなキリ番とはいえ

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月21日(日)13時03分53秒
  「懇親の因果」が現行一筆箋登録投稿記事第二千五百号であったことは、誠にめでたく、嬉しいことである。  

懇親の因果

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月21日(日)11時14分14秒
  昨土曜、旻天快晴の露台に簡易卓子と椅子を出し、冷えた箱茶を飲みながら、束売りしていたドット入りキャンパスノートにシャーペンで〆切を過ぎた原稿をチマチマと。刻限を見計らって弊廬を出、輝く蒼穹の下、東京駅へ。日が傾いてひたすらまぶしい中央線ホームから地下に潜り、丸ノ内線でホウムカミングデイが果てようとする本郷。雑談室で久振りに数巻本の中世史事典を手に取り、Sachsenの項目を読み始めたところで、古代希史、近代愛蘭土史の知人に誘われて、本郷通り向かい路地奥の懇親会場へ。

例年になくこぢんまりとした会が幸いしたのか、畑違いで縁も薄い大先輩たちから各々の戦中について、その問わず語りを聞くを得た。恩師の恩師の講義の模様や、書籍になって名高い外遊の前後についても、実際に見聞した様子を話して貰った。単に同窓というだけのつながりで集まった会合であるからこそと言うべきか、単に同窓というだけでここまで懇ろに話をしてくれる先達を有難く思った。一昨年まではこの会で元気いっぱいに話しかけてくれた大儒がひっそりと初夏に簀を易え、常になく寂しい今年の席上、いよいよ御一同の健勝を祈る宵であった。
 

げにあやまてる

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月20日(土)22時05分31秒
  正しげなことを言っているげに見えるげなのを正しいと取り違えて安心と思考停止の軽やかさをたのしむ風潮は間違っている。輿論とはどうしてもそうした傾きをもつものであり、世相とは往々にしてこうなるものである。これは間違いない。戦後の言説空間に特有の歪みと捻りが、薄っぺらい「正義」を産み、流通させるのもいつものことで、それが大きな事件や現象で殊に顕著になった昨今も、その空間にあって特に異状を認めるべくもあらずとは言え、本来これは間違っているということだけは間違いない。識者、学者が己の専門を離れて社会問題に関する発言をすると、悉くこの陥穽にはまり込むのも已むを得ないとはいえ、戴けない。識者、学者とは本来、そうした戯画の構図が見えていなくてはおかしいし、見えているからこそ言動を慎むのではないか。一個人という隠れ蓑の後ろで放言の快楽を貪ることは、あらゆる審級に照らして好ましくない。勿論、その放言に踊るのも、踊らせるのも、足りないとしか言いようがない。民主主義の宿痾である。さらに足りない人が民主主義を声高に叫ぶので、いよいよ怪しく、危ういことになるのは、戯画というよりも、もはや漫画だ。  

いい歳をして

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月17日(水)06時57分10秒
  行きつけの湘南堂古書店で文庫本を二冊。

一冊は『考えるヒント』。いよいよ小林秀雄を読み始めた。この歳まで読まずに来たのは、無論いつもの天邪鬼。この歳にして手に取ったのは多分、巡り合わせ。機が熟したのだろう。

帳場に「これ」と言いながら、二百円を持って行っていく。ついさっき、三幸園で昼を認めた時の釣り銭が百円玉二枚。計ったかのようである。店主は奥付に鉛筆書きした値段を確かめ、さらに自分が書き入れた特殊な符号を認めて、百円です、二冊百円の棚にあった本だからね、と。

二冊百円。棚に下げたその値札には気がつかなかったけれども、いいのだろうか、五十円で。やはり小林秀雄を買う機縁が熟していたのだろう。
 

自然と/に生きる

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月 4日(木)01時42分47秒
  自然の中でとは言わぬまでも、自然の一部として、自然を身近に感じながら日々生きる人生と、自然を遠いものとして暮らす人生とでは、自分の持って行きよう、持ちようが大分変わってくるだろう。自分が自然の一部をなす、とも言えぬくらいの小さな存在であることの儚い喜びを味わうか味わわぬかで、人生は大分違うだろう。  

心/真理

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月 1日(月)22時20分51秒
  悲憤慷慨の生産性は低い。即ち発散だからである。皮肉なことである。  

惨害とまでは言わぬにせよ

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月 1日(月)22時18分48秒
  千代田城の堀はいつもの碧がタワシのような色に染まっていた。最寄り駅脇の精肉店の屋根を覆っていたトタンは捲れ上がり、団子になっていた。弊廬裏手の茶畑で産した茶葉を加工する作業場でも、二本ある金属製の煙突の片方が真ん中からポッキリと折れていた。茶畑向かいに広がる栗畑には、折れた枝、幹、落ち竭した毬栗が昊天と見まがう台風一過の強烈な光線を浴びて無残であった。ゴミ集積所にはいずこからともなく飛来したブリキの看板が三枚ほど置いてある。先日の台風でも二枚ほど飛んできたものを、誰かが集積所に置いて去ったから、これで五枚。  

台風一過

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年10月 1日(月)08時29分21秒
  台風二十四号は去った。昨夜の暴風雨で弊廬は揺れた。軒先に寝かせて母衣がけした自転車は飛ばされて庭に落ちた。放置するとなにが起きるか判らないので、夜分に回収して玄関内に引き入れた。往来の絶えた表通りの向こうの方では、小さな公園のあたりでトタンのようなものが何かに激しく打ち付ける騒音がした。数次にわたり停電もあった。海沿い、山間の被害を思う。軽微であることを祈る。  

禁句

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月29日(土)21時35分9秒
  「常識で考えれば」「良心に照らして」という言葉ほど重たい言葉はない。これほど胡乱に響く言葉もない。使い手の器量が言葉を裏切るのであろう。  

墨蹟を/に観る

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月29日(土)12時13分54秒
  来春、東博に顔真卿が来るという。今からたのしみである。支那の歴代名筆を眺めるのは無上の幸せである。

文章がいい。全て自分の言葉をつづる創作である。本朝当代はこの点、かなり見劣りがする。臨書が多く、創作も内容が貧困である。古筆に遡るとよいものが多いけれども、古典となる力はやはり支那に一籌を輸[しゅ]すると言わねばならない。支那名筆は活字で読んでもいい文章がその字、その語、その場[=配置、機会]に相応しい造型で置かれている。カスタムメイドの極北としての美しさがある。

墨痕には筆の動きが鮮やかである。稀代の名筆ともなれば、その動きが至妙の旋律をなす。指揮者を必要とする楽譜を遙かに凌ぐ精度で、また楽器を一切必要とせずに、その妙楽を観る者に届けてくれる。実際に音を聴く人もいるだろう。墨痕が伝える動きは古今、天地にあって、他にはあり得ぬ唯一の軌跡を辿る。その動きが体の中に染みこんで、融けていく。玄黄の理が体に宿る。

古典や文字をどう読むか、消化し、昇華するかを考え、実践する上でも、支那の名筆はなによりの教材となるだろう。顔真卿のように伝統と革新という、優れて人間的な事情も絡む筆法、また具体的な日常に即して筆を執り、その作が伝わっている場合、なおのことそうであろう。
 

ウジウジ

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月25日(火)01時51分5秒
  「氏」を使うことで中立を期す向きがある。刷新を、と言うべきか。

いや、それウヂですよ──思わず御注進に及びたくなる。そういうものに否定的な人が「氏」を使う傾向にあるのが不思議だ。その矛盾に気がつかないのが不思議だ。「氏より育ち」と言うけれども、ウヂも育ちも忌むような人々ではないか。

不佞自身はウヂと知った上でも必要があれば「氏」を使うに吝かではない。もっとも、更なる敬意を罩めた呼称が使える際にも敢えて「氏」を、ということはない。
 

民主主義の物言い

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月23日(日)21時20分39秒
  政見を明らかにする前に、テレビやラジオ、新聞で習い覚えた言葉は一旦忘れることである。

「お友達内閣」と言いたくなったら、「お友達じゃない内閣」の名簿を即座に作れるか、自分の胸に問うとよい。作れて纔[はじめ]て「お友達内閣」の評語を使う。

その際、ならばなぜ、敢えて「お友達内閣」を作るのか、その意図も併せて説明することになる。これがなかなか難しい。それが「撓め」になる。情報の蒐集と評価に向かう契機になる。

情報機器が発達した。国会中継をまるごと聴けるようになった。そうした当今、なお膨大な手間暇が必要な作業である。これが主権者の責務の重さであり、民主主義の重みである。
 

厭わしけれども

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月22日(土)14時56分1秒
  「デファクトスタンダード」という言葉は興味深い。自分ではまず使わないし、使わないよう心がけたい。呪文であり、欺瞞である。即ち決め台詞である。社会や人情の機微を知る上で大切なものが、この言葉に隠されている。  

固執に固執

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月 6日(木)18時26分49秒
  民主主義を特定の概念、行動、問題、価値、アイテムへの固執と忠誠だと誤解する風潮が強いけれども、その前提、基礎をなす原理、或いは理想、虚構であることを忘れてはならない。それを忘れているような言動が巷に溢れて──いや、忘れているよりも、はじめから頭にないというべきか。

慥に、民主主義の旗手を以て自ら任じかねないような教諭に教わった時ですら、そうした見方は全く話題に上らなかった。寧ろ教諭が気にしている、気に入っているイッシューについて、贔屓の観点から紹介し[これも固執と忠誠の産物である]、断罪、呪詛する立場の例を取り上げ、口を極めて罵る底のものであった。勿論、当人は理性的に、合理的に批判しているつもりだったであろうし、「批判は非難ではない」と繰り返し口にしてもいた。

なお「イッシュー」は「イシュー」と言うと当世風である。意味も用法も微妙に違う。
 

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