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ウジウジ

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月25日(火)01時51分5秒
  「氏」を使うことで中立を期す向きがある。刷新を、と言うべきか。

いや、それウヂですよ──思わず御注進に及びたくなる。そういうものに否定的な人が「氏」を使う傾向にあるのが不思議だ。その矛盾に気がつかないのが不思議だ。「氏より育ち」と言うけれども、ウヂも育ちも忌むような人々ではないか。

不佞自身はウヂと知った上でも必要があれば「氏」を使うに吝かではない。もっとも、更なる敬意を罩めた呼称が使える際にも敢えて「氏」を、ということはない。
 
 

民主主義の物言い

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月23日(日)21時20分39秒
  政見を明らかにする前に、テレビやラジオ、新聞で習い覚えた言葉は一旦忘れることである。

「お友達内閣」と言いたくなったら、「お友達じゃない内閣」の名簿を即座に作れるか、自分の胸に問うとよい。作れて纔[はじめ]て「お友達内閣」の評語を使う。

その際、ならばなぜ、敢えて「お友達内閣」を作るのか、その意図も併せて説明することになる。これがなかなか難しい。それが「撓め」になる。情報の蒐集と評価に向かう契機になる。

情報機器が発達した。国会中継をまるごと聴けるようになった。そうした当今、なお膨大な手間暇が必要な作業である。これが主権者の責務の重さであり、民主主義の重みである。
 

厭わしけれども

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月22日(土)14時56分1秒
  「デファクトスタンダード」という言葉は興味深い。自分ではまず使わないし、使わないよう心がけたい。呪文であり、欺瞞である。即ち決め台詞である。社会や人情の機微を知る上で大切なものが、この言葉に隠されている。  

固執に固執

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月 6日(木)18時26分49秒
  民主主義を特定の概念、行動、問題、価値、アイテムへの固執と忠誠だと誤解する風潮が強いけれども、その前提、基礎をなす原理、或いは理想、虚構であることを忘れてはならない。それを忘れているような言動が巷に溢れて──いや、忘れているよりも、はじめから頭にないというべきか。

慥に、民主主義の旗手を以て自ら任じかねないような教諭に教わった時ですら、そうした見方は全く話題に上らなかった。寧ろ教諭が気にしている、気に入っているイッシューについて、贔屓の観点から紹介し[これも固執と忠誠の産物である]、断罪、呪詛する立場の例を取り上げ、口を極めて罵る底のものであった。勿論、当人は理性的に、合理的に批判しているつもりだったであろうし、「批判は非難ではない」と繰り返し口にしてもいた。

なお「イッシュー」は「イシュー」と言うと当世風である。意味も用法も微妙に違う。
 

この道はいつか来た道ああそうだね

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月 6日(木)18時09分11秒
  災害時のツイートには気をつけた方がいい。

普段なら考えにくい発言が増える。時に人道、時に職業倫理に抵触するような「毒」も珍しくない。災害当事者の苦衷を吐露したものならば、そういうものとして読み、見舞を述べるか、そっとしておくのが、囀り主のためでもある。

ツイッターという媒体が作り出す空間には、そうした「ため」が限りなく欠落している。世に蔓延して暫く経つのに、そうした振る舞い方や規範は出てこない。媒体の性質だろう。

弁えのない囀りに賛同する。もっと過激なことを言う。軈て呪詛になる。操觚界が焚きつける。その呪詛が実際に輿論を動かす。溜飲を下げるための投票行動に出る。後で泣き、後で嗤われる。

「いつか来た道」である。「いつも踏む道」だろうか。脊髄反射民主主義で遊べる時間はもう残されていない中、豪儀なことである。
 

三件だった

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月 5日(水)21時42分49秒
  複数端末で行ったり来たりしながら投稿しているツケが出ただけならばまだしも。  

右二件

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 9月 5日(水)21時41分26秒
  投稿者が管理者名義になっていた。通常の投稿なので、いずれも「元夏迪」名義に読み替えて戴きたい。  

 投稿者:夕霞堂隱士  投稿日:2018年 9月 5日(水)21時16分12秒
  この節、近傍に朝顔が多く花開き、白粉花、露草も賑やかである。竜の髭の群落もところによっては見事に咲いている。用水の滸、殊に桜の巨木に蓋われた砂利の小道の足下だ。上水には樹々が亭々として聳え、新緑と見まがう韶い葉陰があるかと思えば、すでに澄んだ黄色に染まった葉もちらほらと。  

平和の/な叫び

 投稿者:夕霞堂隱士  投稿日:2018年 9月 5日(水)20時03分35秒
  「この身はどうなろうとも」という人はいた。覚悟は疑わない。「この子がどうなろうとも」という人はまだ見ない。見ても信じない。見たら警戒する。

「この子を戦地に」と似ているけれども、全然違うことに注意したい。「この子を戦地に」と叫ぶ人は「この子がどうなろうとも」と叫ぶのだろうか。叫ばねばならない筈だが。
 

ノウトを繞る姿勢が見える

 投稿者:夕霞堂隱士  投稿日:2018年 8月31日(金)01時35分1秒
  手書き 大学ノート」で画像検索をすると、当人にしか意味がなさそうなノウト、読むための紙面ではなく、紙面に書いて練習をした残骸のような、優れて実用的な写真が表示される。「手書き フールス」で検索をすると、まずペンが写り込んだものが目につく。まったりとした写真も多い。試し書きや抜き書き、手書きに関する思いを手書きした文章を記した紙が見えてくる。ノウトが目的化しているか否かの違いである。この懸隔が社会人になって(も)ノウトを作成し続けてもよいのだという「気付き」を齎すばかりか、その「気付き」で盛り上がった気持ちをいよいよ高く燃え盛るようにする絡繰である。  

カウンタの数字を見るには

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 8月28日(火)23時10分57秒
  先日「この頃」でぼやいたカウンタの数字は、ブラウザのセキュリティを解除すると見えるようになる。この書き込みをしている段階で39090  

薄氷を履むが如し

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 8月28日(火)23時06分37秒
  マケインを選べば、こうはならなかった。それが民主主義という現象であり、その限界である。マケインを選べなかった。それも民主主義という現象であり、その限界である(マケインが良い、オバマが悪いという話ではないことに留意されたい)。

こうしたことは判りきっていることなのに、毎々声高に叫ぶ人々がいる。それが民主主義という現象であり、その限界である。それを弁えずにトランプは悪いという(トランプが良い、若しくは悪いという話ではないことに──無理かも知れないが──留意されたい)。それが一番悪い。

良識をもって自ら任じる世界の人びとが何を言っているのか、きちんと見極めねばならない。民主主義の基盤はいつ(ま)でも、どこで(まで)も脆弱なものである。短い人生の裡に、それくらいのことは皆、悟る機会に恵まれている筈だ。戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し。
 

文集所収作品の文字コウディング変更

 投稿者:夕霞堂隱士  投稿日:2018年 8月17日(金)16時05分52秒
  本日の更新分から、文集のファイルをshift-jisからutf-8へと変更する。  

水を撒く

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 8月17日(金)12時14分16秒
  留守中の強烈な日照りで庭の胡瓜が枯れていた。日照りに強いミニトマトはさすがにたわわに実を付けているけれども、葉は枯れてきている。昨夜遅くにお湿り程度の降水はあった。やはり足りない。水を撒く。

足下はクラピアが一面に生い茂る。それでも水を撒くと、小さな家守が身をくねらせる。驚いた精霊飛蝗が逃げようとした脚を滑らせる。それを見捨てて、竜の髭だの、躑躅だの、伊呂波楓だのに撒水先を移す。

蛇口に近い薔薇や槇はすこぶる勢いがよい。どこかから飛来して鉢に落ち着いた山椒も小さな葉をしっかりと広げて残暑に立っている。鼠黐ではないかと言われながら、植木屋も首を捻る得体の知れない樹、ひょろひょろの杏の木なぞは枝葉をバッサリ切り落としたのに、平然と佇立している。すさまじい生命力だ。

水を撒く。霧状に広がる水に日が美しい。木々に、大地に散った水が珠の燦めきを放っている。
 

ノウトが戻る

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 8月16日(木)10時41分49秒
  弊廬を上水をやや西に遡ったのが四年前。市境は跨いだものの、電話番号は変わらなかった。その後相変わらず取り紛れ、転居の際の梱包が一部残っている。

日頃雑記に当てているミドリのダイヤメモも、最近でこそ消費量がガタ落ちながら、使用済みのものが大量にある。手つかずの梱包に入れたまま、四年。

ダイヤメモ導入以前は──以前から、というべきか──A6判のノウト。こちらは使用済み分も量も知れているので、仕事机の抽斗に収めてあり、転居に際してもそのまま搬んできたから、この四年間に見返す機会がちらほらあった。ただし、現行分が見当たらない。一番手近なところに置いてある筈のものが見つからなかった。

ダイヤメモの塊と一緒に梱包されていた。不在に気づいてから一年、見なくなって四年。大概の機能はダイヤメモが引き継いでいるけれども、長期にわたる記事、まとまった記事、重要な記録などはノウトである。ダイヤメモに書き留めるにしても、歌、句を集めておくのもノウトだ。この四年間、歌も句もろくろく捻っていないということに驚きながら、このたび発掘したノウトを読み返していると、旧作の稚拙さが目についてならない。それだけ成長したのか、ここまで突き放して読むためには四年の歳月が必要なくらい、自己への執着が強いのか。

第四巻にあたる本冊は、裏見返しの書き付けによると平成十三辛巳年(西紀二〇〇一)臘月癸卯六日木曜に池袋西武百貨店ロフト館で仕入れたと書き付けてある。剣橋在住時に一時帰国して学振の採用面接を受けた時のことだとある。最初の記事は翌十四壬午年三月丙亥二十日水曜の日付。発掘時最新の記事が平成二十五癸巳年(西紀二〇一三)十一月甲申十四日木曜冬快。この間、実に十一年。その後平成三十戊戌年(西紀二〇一八)八月己卯十五日水曜終戦記念日昊快の発掘まで、五年の間更新なし。気の長い話である。

剣橋弊廬傍のAldiで仕入れていたLuxury mini chocolate strawberry yogurt snack sticksの包み紙多数(栞代わり)がブックカバーの袖に挟んである(中身のノウトは取り替えてもブックカバーはそのまま使い続ける)。キプロスでもらったセサロニキの塾経営者パヴロスの名刺も勿論だし、倫敦で開催されながら剣橋の不佞に声のかからなかったコロキアムに出かけて貰った鑑のような、次第のような、それに友人のが開く個展の通知も差してある。(記憶からも)喪われた歳月の断片が手元に戻ってみると、歳月の長さと速さ、空しさが胸に染みこむ。人生を思う。

ノウトはあと六頁を残すばかりだ。次にカバーに差すべきノウトも一応用意してある。現行とは違うものだ。ただ、どうするだろう。今のものを買い足して使いたいような気もしてきたし、このノウトの制度をやめるべきかと思いもする。続けるとしたら専ら歌と句の記録になっていくのだろうか。
 

時代

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 8月12日(日)13時28分19秒
  北斗星旧客車の中に座り、感無量。使った人ならばさらに。  

いいものを読みたくなったら

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 8月 8日(水)15時11分29秒
  ひどいものを読んでいると、いいものを読みたくなる。いいものを読みたくなったら、いいものを書かねばならぬ。書けねば読めぬ。書くように読まねば、読んでも読めぬ。読むように書く時代に愚かしく見えようが、そういうものだから仕方がない。  

覚醒

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 7月11日(水)08時01分15秒
  「目覚めた」という形式(体験)は正道に就いたことを意味しない。寧ろ逆である。この形、この理に「目覚めた」ら、はじめて自省と自制が意味を持ち、豊かになる。  

読みの深浅

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 7月 3日(火)07時22分39秒
  岩波文庫編集部のツイッタが名著の名句を引用して、ちょっとした蘊蓄や感想を添えている。どこまで本気なのか判らないが、本気ではないかと疑わせる暴挙には違いない。読みが浅いのである。だから翻訳で済むのだろうか。

読書が得意なんです、この新書一冊なら三十分とか一時間で読みます──自慢げに言う人を見かける。読書が出来ないんだなと判る。新書一冊三十分でも一時間でも、それで読み切るなら読む価値がない本である。その平凡な事実を知らずに「読書」を積み重ねている以上、読書をしていないことは明らかである。
 

この頃

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 6月17日(日)23時52分55秒
  最近、題下のカウンタが表示されなくなっている。気に入っているのだけれど。この投稿をする直前に管理用のページを覗いたら、39,047という数字が目についた。あっているかどうかは判らない。そもそもこの数字は訪問者数を示すのか。

針鼠さん、よう御越し。ザルツバッハ先生には宜敷言ってくれ。元夏迪との邂逅には長く険しい道のりを踏まねばならない。心身のコンデションをベストに整える必要があるのだ。看板を修理した店の隣で大盛りのカツカレーに盛り合わせを食べるだけでは済まない……後方[しりえ]の紳士の社交場で、あるいは斜向かいの摘発経験書肆でハードにせどりをして、見回りの巡査に職務質問を受けるくらいでなくてはならないのだ……そうすれば自ずと、道、は、拓け、る!

そういえば、シュタインブルンネン先生の書き物を初めて手に入れた。ネットでただだった。ただだったの字面が怖い。夜更けにはたっだだたでもだだたったでもたただっだでもだただったでもただだったでも全然いい。それが怖い。同志社大学で講演したものだ。正名論を展開するらしい。勢いよく積ん読だ!
 

次はグレートパンプキン(岡山)に集合だ!

 投稿者:針鼠  投稿日:2018年 6月 1日(金)01時14分42秒
  オレのカツレツに関する書き込み、チャンと見てくれたかい?あと広島でザルツバッハ先生がCaelius君に会いたがっていたぞ。  

晴れた

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 5月29日(火)18時43分23秒
  朝からひどく陰湿な武州で歩き、バスに乗り、鉄路を使ってレクチャラ、地下鉄に潜って演習、ディダスカロス。同僚二人が側の教室から引き上げる途中、打ち揃ってこちらの演習室に来て覗き込んでいるのに気付かず、検印や雑談で学生と群れている不佞に皆爆笑。そのまま小学館まで歩きながら、学問、学務に亘る対話に休み時間を費やし、地下鉄の移動に潰れた昼に食べそびれたカレーパンを食べそびれて今度はパンが潰れていく中、ディダスカロス業務へと先ほどの演習室に戻れば、演習から希語に流れた学生も慌てて昼仕度。跳ねて候所に帰れば晴れ。帰路の地下鉄が地上に出れば、遠く陽は傾いている。そんな一日。  

備忘録:鏈接一覧の手入れ

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 5月27日(日)15時54分25秒
  本網站の鏈接一覧も大分改修を要する時節となって来た。自分が使わぬ以上、目に止める閲覧者もあるまいが、そのうちに手を入れておくつもり。  

光風璆鏘

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 5月25日(金)10時18分48秒
  久し振りに紛う方なき昊天快晴。富嶽は霞んで見えないけれども、武州在の弊廬に閑かな光、それに風。

所用で用水脇の道を徒歩で往復して、帰館後に掃き出しの硝子窓を開けて網戸にする。ふと、家事の手を休めると、高い空に渡る風が唸るのを聞く。

善哉。奥多摩の山中で岩に腰を下ろして小休止、梢の間に遠く青空を見上げる時と同じ響きに人生を思い、宇宙の秘密と理法を知る。
 

心を浸してくる町で

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 5月20日(日)08時05分16秒
  陰溽の武州を離れて西に下るほどに青空が覗いた。瓦屋根が増える道筋を辿ること四時間、山陽新幹線を下りると、先行する親友が警告してきた通り、肌寒かった。原爆ドームのある町に来た。

二度目とはいえ、勝手が判らない町でバスに乗り、宿に着き、荷を解いてすぐに出る。脚の向いた大手町でせり上がるような橋を見る。標柱に「万代橋」と刻んである。川面は意外に広く、遠くに山を拝む風情は京都の三条辺りを思わせる。

土曜の昼下がりゆえにか、広い街衢はいよいよ広く、寂しく、疎らな光が散っている。島に聳える不思議な形の建物はアステールプラザと称する。希語の「星」だ。

大きな部屋でローマ帝国研究者と、十八世紀イングランド議会研究者の話を聴く。なかなか講義を聴く機会も少なくなってきた身には、集まった人の数だけ講義や論題があるかと思うと、心が躍る。

その一方で「それを知って冥土に行くのか」「折角知ったそれを置いて冥土に行くのだ」という声がどこからともなく胸に響いてくる年格好になると、粛然とする機会も増える。蕭然、いや、悄然と言ったがよいか。生まれてきて、生きて、懸命に攫もうとするものは大切にしたい。肌寒いよと警告してくれた旧友と久し振りに席を並べて話を聴きながら、自らを省みる。

日も傾いて独り催事を離れ、裏通りに小さく灯りを照らすカレー屋の小綺麗なカウンター席に客一人で座りながら、コンクリートの寺院が目立つ一帯を歩きながら、路面電車が二台も三台も玉突き状態で先を急ぐ大通りに佇みながら、薄闇が心を浸していく。心が薄闇の中に融けていく。そういう町なのだろうか。

日曜の朝、目の前に窓がある。窓の外には白い壁がある。空模様は判らない。恐らくは涼しく晴れている。今日の会場は昨日と違うが、宿から歩けばすぐそこだ。九時の会合に間に合うよう、朝暾に心を浸しながら、閑かに歩を進めよう。沢山の知識が待っている筈だ。
 

まつもとある

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 5月 8日(火)07時11分48秒
  乃公は終わった。また徹夜だった。リスペクトしていい。リスペクトをリスペクトしてもいい。とにかく仕事だ。レクチャラ、移動、演習、ディダスカロス。  

はまだない

 投稿者:針鼠  投稿日:2018年 5月 7日(月)23時36分15秒
  講義の準備が終わらない・・・もう休講をリスペクトしようかな・・・それともビデオを1時間ほど流すのをリスペクトしようかな・・・  

尊敬の念

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 5月 5日(土)01時54分33秒
  すぐに「リスペクト」と口にする風潮が、ただでさえ軽い「リスペクト」を益々軽くするのが皮肉である。  

料簡

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 4月16日(月)00時29分41秒
  公園でベンチの前にピックニックシートを拡げる。喫茶店で鞄に一席与える。  

頓悟

 投稿者:元夏迪  投稿日:2018年 4月 9日(月)00時35分24秒
  昨日曜微陰、子供広場に佇んだ。灌仏会に帰省した序でである。

茶畑や菜園の一部を潰して、地区の用に供した広場である。かつては里山の麓にあった広場が、地主の都合で使えなくなり、代わりに用意されたものでる。地主の厚意による。

古びたプラスチックのベンチが端の方に置いてある。広場の真ん中ではないけれども、端ではないところに、畑の頃から立っている小さな木が、頼りない木陰を作っている。地面には青みを帯びた砂利が撒いてある。正月の餅搗きの折に焚き火を焚いたところには、今も微かに炭の残骸が混じり、そこだけ丸く雑草のない地面が顔を覗かせる。

雲の浮かぶ空が見えた。向こうの里山には通った小学校や、昭和後期の新興住宅地「○峰」が新緑に埋もれている。広場の柵の向こうは、昔から佇まいの変わらない百姓屋と茶畑が見える。広場の地面には所々蒲公英の群落が黄色く輝き、陽光の熱を攫う風が冷たかった。背後に目を転じれば、また別の里山、あるいは丘が今度は近く、茶畑や桐の木を消し去った住宅群が零れそうに犇めく。

ぐるりと見回して、子供の頃には退屈きわまりなく思われた景色の中に立つ懐かしさ、床しさを覚える。自分が退屈きわまりない人間になったからなのだろうか。温もりを感じる大気が体温を奪っていくからだろうか。物を見続けた目が肥えたのかも知れない。ああ、自分はいまここにいる。ああ、自分はかつてここにいた。子供時分に遊んだ子供広場は古い方ながら、今の子供広場で駆け回り、戯れる児童を眺めていると、俄にそんな感慨が身体の隅々に染み渡った。世界の広さを感じる一瞬であった。
 

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