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Re: 撮って来ました

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月20日(日)16時41分22秒
返信・引用
  > No.438[元記事へ]

松村さんへのお返事です。

弥栄町6番地です。

ブランコのあった公園はすっかり公園になっていますね。
わたしが子供のころはポツンとブランコだけが設置されていて、まわりは固まった土と雑草があちこちに散らばって伸びている広場でしたから。
ブランコが昔からのままなんてすごいですね。ギコギコ音を立てているんでしょうねえ。

ブランコの横から弥栄町の方に行く細い道があり、その近くには坑道に空気を送り込んでいるという、いつも大きな音と風がでているコンクリートの施設がありましたよね。
また、そのそばには小さな池(水溜りといってもいいくらいの)があって、ザリガニつりを煮干しとかミミズでやっていました。

写真にある家は、ほんとに昔のままですね。もう築5~60年くらいになるのではないでしょうか。むかしの友達がそのまま飛び出して出てきそうです。

ではまた
 
 

boroさんへ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月20日(日)16時32分56秒
返信・引用
  > No.437[元記事へ]

boroさんへのお返事です。

弥栄町6番地です。

まだ小学生のころに新笹尾から新聞配達で寿町あたりを配達に来られていたなんて、今の子供たちには信じられないことでしょうねえ。
東小学校が桂川小学校の分校だったというのも知りませんでした。
2鉱とか3鉱という言葉も父たちが話していた言葉で記憶していますが、場所がどこなのかもまったく覚えてないんです。
わたしが小学校の高学年ころには、もう打ち捨てられた炭鉱施設や炭住がかなり出ていましたから、衰退がすごく早く進んでいたのでしょうねえ。

豆田・稲築線ってなんとなく覚えています。下寿町のそのさらに下あたりに何軒か家がありましたが、その横の道でしたよね。 その道から脇道をおりていくと小さなお店(子供向けの雑貨やお菓子を売っていた)があったと思いますがいかがだったでしょうか?
また、その小さな集落と豆田・稲築線を挟んで向かい側にあった小高い山にはコンクリートで作られた構造物があったと思います。
おそらく炭鉱遺跡なんでしょうが、子供たちは「トーチカ」と呼んでいたような。
もうすっかりそれらも無くなっているんでしょうね。

ではまたなにか思い出したら書かせていただきます。


 

boro さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2020年 9月18日(金)23時22分53秒
返信・引用
  松村さんの炭鉱長屋の図!懐かしいですね!
①笹尾は西鉄バスの終点で西尾時計店とパーマー屋さんを右、左に見て、ロータリーが有り、そこでUターンしていましたね?臼井駅方面を正面右に見てその前方に有った長屋ですね?
私の同級生に ウエダバシ、オクノさんがいました。双方共に嘉穂高校に進学していましたがご存知ありませんか?
②1鉱の正確な位置は知りませんが、言われているとうりの位置に白い構造物がありました。
時期的には定かではありませんが、その古いボタヤマの奥の方から”山崩し”的に運び出していたと記憶しています。(昭和40年代)
③豆田・稲築線に並行して、、、ですが、稲築方面に向かって道路の右手一段下にあった住宅のことなのでしょうか? 屋根がスレート葺きの住宅だったと記憶しています。
この地区の入り口は、島本工務店が右にありました。
多くの在日、朝鮮・韓国人の方が住まわれていたように思います。
東小学校へ通う”通り道”だったので私を誘ってもらい一緒に行った記憶があります。

では、、、




   
 

撮って来ました

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月18日(金)22時20分49秒
返信・引用
  週一回実家に行っています。今日がその日だったので、
懐かしんで頂ければと思い撮って来ました。

「公園のブランコ」記憶する限り、代替えはしていないと思います。
「番地板」弥栄ではこの一枚しか残ってないようです。新弥栄7の文字がうすーく見えます。
「炭住」昔のままに近い家がまだ何件かあります。
3枚しかUP出来ないようなのでご了解ください。
 

久しぶりの投稿

 投稿者:boro  投稿日:2020年 9月18日(金)14時35分53秒
返信・引用
  松村さんの炭鉱長屋の図をを見て、思い出に耽っています。私は、新笹尾でしたが、新弥栄の炭住ができたと同じころに炭住ができたと記憶しています。もともと笹尾は東小学校の東に8軒長屋の炭住が4棟あったと記憶しています。私が小学校3年の時、当時桂川小学校の分校だった教室が火災にあい、それを見に行って、薔薇線で腿を怪我し、笹尾の友人の家で治療をしてもらったことを思い出しました。その傷は、まだ腿に残っています。そもそも、新しい炭住ができたのは、吉隈炭鉱がビルド鉱となり、麻生関係の各所の炭鉱から職員・鉱員の方が転居してきたためです。新笹尾町の入口には職員社宅が新設され、新笹尾の奥の方にも西笹尾と広がっていきました。私は中学・高校と笹尾に住んでいましたので、新しい弥栄の方は知っていません。ただ、小学校の6年の時、友人に誘われて、新聞配達をしました。このころはできたのです。受け持ちは、弥栄の近くでもないですが、上寿町、奥寿町、下寿町でした。臼井町の販売所に取りに行き自転車で運び、配達をするわけですが、寝とぼけて炭住の1列を間違えて配達をしてしまい、販売店主が再配達をするなど失敗なども多々ありましたが、いろんな経験ができた少年時代でしたね。おおらかに大人が見てくれた時代だったかもしれません。
ところで、弥栄の皆さんは2鉱の坑口から入られる親御さんが大半だったのでは。私の父は3鉱からでした。ということは1鉱がどこかにあったのかもしれないという疑問がわき、記憶をたどりましたが、弥栄の下のバス通り豆田・稲築線を横切って、上山田線に並行して狭い道があり、その奥に坑道の後みたいなものがあったことを思い出しました。今は麻生カントリー倶楽部の造成でなくなっているであろうと思っています。もともと、このあたりが吉隈といわれていたところ。
当時も古いボタ山があったり、豆田・稲築線に並行して、60年前の当時でも古い炭住があったことを記憶しています。あったのかどうか。おそらく戦争前のことでしょうからわかる人もいないのでは。どなたかわかる方は教えていただけませんでしょうか。
少し長い文章になりましたが、年寄の想い出にお付き合いありがとうございます。
 

運動会

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月18日(金)10時29分9秒
返信・引用
  > No.431[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

弥栄町6番地です。

みんな家はほどんど開けっ放しみたいなものでしたね。
鍵も簡単なねじ込み式だったり簡単なナンバー錠だったりして、力を加えれば
すぐに開いちゃうような。
暑い夏は夜でも開けっ放しだし、布団の上には茣蓙を敷いて寝てました。

グランドでの運動会は全く記憶にないので、わたしの頃にはもうやってなかったんで
しょうねえ。代わりに小学校の運動会には町が総出でお祭り騒ぎでしたね。
大阪屋さんとかいうお店なのか花田商店なのか覚えていないですが、海苔巻きや
お稲荷さんをそこに注文して、運動会のお昼に食べていたような。お祭りのごちそうという感じでした。

秋の遠足では大将陣に登ったり、稲築公園や大分八幡(?)に行ったりしました。
今思うと、子供の足でよく歩いたもんですね。

ではまた


> そうですよ!全く!
> 隣との境は単に木の杭が三本ほど有り、その間に芝木が植えてあろだけだったと思います。
> ぐるっと回って外から庭に入るための簡単なドアをつけていたと思います。
> ですから、誰でも、何時でも庭から入って来れましたね?
> 危ないと言えば危ない世界でしたが、大きな事故、犯罪も聞きませんでしたね?
>
> 昔々は秋になるとグランドで町内会対抗の運動会もあり、前日に母が作る弁当が楽しみだったことを覚えています。 多分 昭和30年代だと思います。
> 小学校の帰りに忠霊塔に登り、降りするのが楽しみでした。(今で言うロッククライミング?)
> では、、
>
 

家の絵

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月18日(金)10時15分47秒
返信・引用
  > No.433[元記事へ]

松村さんへのお返事です。

弥栄町6番地です。

そうでしたね、このレイアウトでした。
弥栄町は2軒長屋でしたので左右の家で、この絵と同じの家と逆の家がありました。
わたしのうちはちょうど逆。台所には時間断水があったから水瓶(水槽)もありましたね。
子供でしたから狭いとは全然思いませんでしたが、今だとどうなんでしょうね。

弥栄町の6畳間には小上がりみたいな出窓がついていてちょっとしゃれていたんですよ。
子供のときはその出窓にのってステージみたいに歌を歌ったりしていました。
庭もあって小さな柿の木がありました。

私たち一家が引っ越したあとには、小学校のときの同級生の一家の方が引っ越してきたと
5番地のワタナベさんが教えてくれました。今も住んでおられるのかなあ。

ではまた。

> スミマセン画像が送れてなかったみたいです。
 

いまだに

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月18日(金)08時01分13秒
返信・引用
  すみません。何度も追加で、、、

いまだに、実家では「おりんしゃー?」と声がしたと思ったら、
もう、家の中にあがって来てありますよ。
それは、まったく昔と一緒で、ひとんげー(人の家)もわがげー(自分の家も)
関係ないですね。こんな感じなので、犯罪なんか無縁だったと思います。
 

(無題)

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月18日(金)07時32分0秒
返信・引用
  スミマセン画像が送れてなかったみたいです。  

炭鉱長屋

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月18日(金)07時29分56秒
返信・引用
  「花田商店、小関散髪屋、派出所、会館、旧幼稚園、病院、郵便局、派出所、笹尾橋」花田店の手前にあったトンネルも無くなり、残っているのは郵便局だけですね。小関床屋は弥栄の下に移転しています。臼井駅も大隈駅もありません。
笹尾橋があったあたりに、数年前にセブンイレブンが出来て、
この辺りでは一番にぎわっています。

実家の前はまだ炭鉱長屋そのままですよ。弥栄にはいくつかそういう家がまだあります。
下手な絵ですが、、、こんな感じですね。

 

弥栄町6番地

 投稿者:弥栄59  投稿日:2020年 9月17日(木)22時53分56秒
返信・引用
  そうですよ!全く!
隣との境は単に木の杭が三本ほど有り、その間に芝木が植えてあろだけだったと思います。
ぐるっと回って外から庭に入るための簡単なドアをつけていたと思います。
ですから、誰でも、何時でも庭から入って来れましたね?
危ないと言えば危ない世界でしたが、大きな事故、犯罪も聞きませんでしたね?

昔々は秋になるとグランドで町内会対抗の運動会もあり、前日に母が作る弁当が楽しみだったことを覚えています。 多分 昭和30年代だと思います。
小学校の帰りに忠霊塔に登り、降りするのが楽しみでした。(今で言うロッククライミング?)
では、、
 

松村さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2020年 9月17日(木)22時16分54秒
返信・引用
  弥栄の風呂屋の前(59番地)から、無縁仏の横を右手に見て巻き上げ機の下を潜り、
直線で、
①時計屋の手前で、右折し崖を下り線路を横断し左折し、桃畑の間を通り、
②時計屋を通過し、右折し派出所左に見て、笹尾橋を通過し
③標準的に幹線道路で花田商店、小関散髪屋、派出所、会館、旧幼稚園、病院、郵便局、派出所、笹尾橋を通り小学校前を通り、臼井駅から大隈駅までをD51で3年間通いました。
(工業高校と農業高校は大隈駅で下車)、普通課の山田高校は上山田駅まで、、、
あの頃の高校生も今では70歳近い”爺、婆”になってしまいました。
暇が出来た時に、一人でゆっくりと東小学校、中学校と徒歩で訪ねてみたいと思っています。
何年後なのか分かりませんが、、、、


では、



、、
 

弥栄59さまへ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月17日(木)21時41分34秒
返信・引用
  > No.426[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

弥栄町6番地です。

そうでした!ヒラオカさんです! 思い出せました。
勝気な女の子でしたがいまはもう立派なおばさんでしょうねえ。
記憶にはあるのにどこにいるのかも知らないなんて、閉山なんてなければ
普通のお別れの仕方があったんでしょうに。

弥栄町のとなりとの境目の記憶がまったくないのです。
なんとなく周りは柴みたいな木が植えられていたのは覚えていますが、
隣との境はどうだったのか・・・。
そういえばトイレが家の境の部分にあって、お隣が用をたしていると
こっちまで音が聞こえてきたり。汚い話でてすみません。

小学校高学年ころには、幼稚園横のグランドはほとんど使われていなくて
草がボウボウ伸びていました。
上の方にあった忠霊塔ととか山の神とか思い出します。

上山田線でしたね。名前まで忘れてしまっていました。
弥栄町から碓井駅まで歩いて行ってやっと乗っていたわけですから
遠かったですねえ。

グーグルマップを見るともう思い出のかけらさえ見当たらないです。

ではまた


> ①其れは”ヒラオカ”さんだと思います。幼稚園に行く前から中学校までずーっと遊んでいました。中学校からクラブ活動を始め帰りも遅く中々一緒に遊ぶことも少なくなりましたが、、
> 当時は、名前を呼び捨で呼んでいました。今となれば懐かしくもあり、、、、
> ②各炭住(炭鉱住宅)を作る時、隣との境目の壁を青竹を割り、縄で結び、赤土を塗り漆喰で塗り固めていたように記憶しています。
> 新しい住宅が出来る時、どうやって作られるのかを観に行ったことがあります。
> 吉隈で良質な赤土が取れる場所は、旧幼稚園のグランド側のスロープ辺りと言われています無縁仏の墓の辺りだったと思います。遠い記憶のため、正確性に欠けるかも知れませんが、、、、
> ③あの線路は上山田線ですね!飯塚ー平恒(ひらつね)-臼井ー大隈ー下山田ー上山田ー熊ガ畑
> レールに耳をあて、汽車の遠近を測ったりして遊んでいました。
> そんな子供たちはもういないでしょうね?
>
> では、、、、
>
>
>
 

新弥栄町のブランコ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月17日(木)21時29分41秒
返信・引用
  > No.425[元記事へ]

松村さんへのお返事です。

弥栄町6番地です。

ブランコは今もあるんですね。でもおそらく何代目かのブランコかな。
わたしたちが遊んでいた頃でも鉄さびがかなりついていてギシギシと音を
立てていたように覚えています。

わたしは松村さんの家の横の道を通って小学校に通っていたんでしょうね。
もしかすると笹尾橋のうえで横に並んで蒸気機関車の湯気と煙を一緒に
浴びていたのかもしれませんね。

ではまた。


> そのブランコは、まだありますよ。滑り台もあります。
> どれも、吉隈保育園からのおさがりだと聞いています。
> その横の小高い所の裏が新弥栄11、私の実家です。
> 確かに、小高い所は墓所跡だと聞いたことあります。
> 今は、大きな桜の木が植えてあり、春は見事です。
>
> 「笹尾橋のうえから下を覗いて蒸気機関車があげる黒煙や
> 白い湯気をたっぷり浴びる」懐かしいですね。その一人でした。
>
> では、、、。
>
>
>
 

上山田線

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月17日(木)07時41分0秒
返信・引用
  上山田線は、今は道路になっています。
笹尾橋も無くなりました。
上山田線廃線間近の頃は、鉄道ファンが大勢カメラを
笹尾橋の上から構えていました。
それで、蒸気機関車が貴重なものなのだと、知った次第です。
D51の二つつなぎなんか、思えば贅沢な光景だったんですね。
小学校の3年の頃の話でしょうか。
 

弥栄町6番地さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2020年 9月17日(木)00時22分37秒
返信・引用
  ①其れは”ヒラオカ”さんだと思います。幼稚園に行く前から中学校までずーっと遊んでいました。中学校からクラブ活動を始め帰りも遅く中々一緒に遊ぶことも少なくなりましたが、、
当時は、名前を呼び捨で呼んでいました。今となれば懐かしくもあり、、、、
②各炭住(炭鉱住宅)を作る時、隣との境目の壁を青竹を割り、縄で結び、赤土を塗り漆喰で塗り固めていたように記憶しています。
新しい住宅が出来る時、どうやって作られるのかを観に行ったことがあります。
吉隈で良質な赤土が取れる場所は、旧幼稚園のグランド側のスロープ辺りと言われています無縁仏の墓の辺りだったと思います。遠い記憶のため、正確性に欠けるかも知れませんが、、、、
③あの線路は上山田線ですね!飯塚ー平恒(ひらつね)-臼井ー大隈ー下山田ー上山田ー熊ガ畑
レールに耳をあて、汽車の遠近を測ったりして遊んでいました。
そんな子供たちはもういないでしょうね?

では、、、、


 

弥栄町6番地さんへ

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月16日(水)17時46分40秒
返信・引用
  そのブランコは、まだありますよ。滑り台もあります。
どれも、吉隈保育園からのおさがりだと聞いています。
その横の小高い所の裏が新弥栄11、私の実家です。
確かに、小高い所は墓所跡だと聞いたことあります。
今は、大きな桜の木が植えてあり、春は見事です。

「笹尾橋のうえから下を覗いて蒸気機関車があげる黒煙や
白い湯気をたっぷり浴びる」懐かしいですね。その一人でした。

では、、、。


 

松村さんへ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月16日(水)12時56分3秒
返信・引用
  > No.422[元記事へ]

松村さんへのお返事です。

こんにちは。弥栄町6番地です。

新弥栄町にはブランコがある広場がありましたよね。
そのすぐ前の長屋の一番右側だったかにナカヅル君という同級の友達が
住んでいました。

広場のブランコは人気でいつも子供たちがあそんでたような。
その横のところに少し小高くなったところがあって、子供が
入れるくらいの穴がいくつか空いていました。そこに入ってよくかくれんぼなど
をしていました。
父に聞くと、あそこは墓地だったので掘り起こした跡だといっていました。
ほんとうだったんでしょうかね。

ではまた


> 弥栄町6番さん、有難うございます。「たんしゃ」でしたよね、すっきりしました。
>
> 私も久しぶりに、この掲示板見ました。
> 以後、よく見るようにいたします。
>
> ちなみに、今の実家は新弥栄11番地、その前は弥栄53番地でした。
>
 

弥栄町59番地 さんへ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月16日(水)12時49分57秒
返信・引用
  > No.421[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

弥栄町6番地の玄関側から左側の家に住んでいました。
お隣はナカジマさんという方が最初お隣だったのですが、引っ越していかれました。
ナカジマさんちにはクスオという名前の男の子(少しお兄さんでしたが)がいて、漢字で書くと
「九州男」だったと思います。
そのあとに、たしかヒラなんとかさんという方が引っ越してこられたと記憶しています。
同い歳か少し下くらいの女の子がいました。名前は思い出せません。

わたしの弥栄の思い出は、家のすぐ横あたりから斜面になっていて、
その下には線路がありました。なんという線路だったんでしょうか。いまは車道になっているとか。
モウモウと黒煙をあげながら蒸気機関車が石炭を乗せた台車を長~く長~く
連ねて走っていたこと、通学の高校生たちがデッキにまで乗っていたりした
風景です。
桂川東小学校近くの笹尾橋(?)のうえから下を覗いて蒸気機関車があげる黒煙や
白い湯気をたっぷり浴びるのが東小学校生徒の遊びでした。

次作の絵楽しみにしています。
では

> どうでしょうか?
> 私の同級生のマサナリ、妹のイクコ?さんの隣の御家でしたか?
> 随分と長い時間が経ちました。
> 私、昭和26年、兎年生まれ、当年69歳。
> 昭和45年3月、嘉穂工業高校を卒業し、兵庫県明石市の企業へ就職。
> 先般定年退職し、現在、神戸市の小学校(特別支援学級 ”なかよし”さん)で週3日ボランティア活動をして遊んでいます。)
> 私の桂川東小学校時代は、まあ何と生徒の多かったことか?
> 50人クラスで6組まであつたように記憶しています。
> 今の小学生と比べもっと揉まれていたのかも知れませんね?
> 当時は、私の家にはカメラもありませんでしたので映像として残るものも少なく、私の記憶に残る吉隈炭鉱の風景を思い出した時に描いています。あの時のあの時代の子供を思い出しながら、、、、
> 大変に下手な絵ですが、麻生 吉隈炭鉱の一部が思い出されれば幸いかと、、、、.
>
> では、、、
 

弥栄町6番地さんへ

 投稿者:松村  投稿日:2020年 9月10日(木)22時40分17秒
返信・引用
  弥栄町6番さん、有難うございます。「たんしゃ」でしたよね、すっきりしました。

私も久しぶりに、この掲示板見ました。
以後、よく見るようにいたします。

ちなみに、今の実家は新弥栄11番地、その前は弥栄53番地でした。
 

弥栄町6番地 さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2020年 9月 5日(土)12時02分59秒
返信・引用
  どうでしょうか?
私の同級生のマサナリ、妹のイクコ?さんの隣の御家でしたか?
随分と長い時間が経ちました。
私、昭和26年、兎年生まれ、当年69歳。
昭和45年3月、嘉穂工業高校を卒業し、兵庫県明石市の企業へ就職。
先般定年退職し、現在、神戸市の小学校(特別支援学級 ”なかよし”さん)で週3日ボランティア活動をして遊んでいます。)
私の桂川東小学校時代は、まあ何と生徒の多かったことか?
50人クラスで6組まであつたように記憶しています。
今の小学生と比べもっと揉まれていたのかも知れませんね?
当時は、私の家にはカメラもありませんでしたので映像として残るものも少なく、私の記憶に残る吉隈炭鉱の風景を思い出した時に描いています。あの時のあの時代の子供を思い出しながら、、、、
大変に下手な絵ですが、麻生 吉隈炭鉱の一部が思い出されれば幸いかと、、、、.

では、、、
 

Re: 記憶をつなぎ合わせる -2

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月 4日(金)16時51分46秒
返信・引用
  > No.398[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

弥栄59さん、こんにちは。私は弥栄町6番地に住んでいました。
弥栄59さんが新旭町21さんへ返信された中に書かれていますワタナベさんのお家は弥栄町5番地で、わたしが住んでいた家の裏側でした。
家族構成をよく覚えておられますね。
わたしはマナブ兄ちゃんと呼んだりマユミ姉ちゃんと呼んでいましたし、同年のエツコちゃんとは幼稚園に入るまえから遊んでいました。

閉山後にわたしは神奈川に引っ越しましたのでそれからは1、2度あったくらいでしたが、この交流掲示版にエツコさんたちのことを書き込んだら、エツコさんの娘さんという方がそれを見つけてくれて、元気でいることを教えてくれました。
その後はちょっと音信不通ですが。

吉隈炭鉱の住所表示はむかしと一緒なんでしょうかね? 一度弥栄町5番地宛に手紙でも書いてみようかなと思う今日この頃です。

では

> 新旭町21  さんへ
>
> 大変近い所に住んでおられたのですね?
> カズヒロ さんは記憶にありません。
> 私の知っているワタナベさんは、アイコ、マナブ、マユミ、エツコ、ミサコさん7人家族でしたね?多分 エツコ、ミサコさんが生まれていなかった?のかも?
>
 

Re: なんて言ってましたか?

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月 4日(金)16時34分28秒
返信・引用
  > No.416[元記事へ]

松村さんへのお返事です。

弥栄町6番地に住んでいた者です。久しぶりにこの交流掲示板をみたらトロッコの写真があったので。

父たちは「たんしゃ」と呼んでいましたね。私は「たんしゃ」というのはバイクのことかと思っていましたが、そういえばこのトロッコもたんしゃと呼んでいました。小さい子たち(当時の私を含め)トロッコと言っていたような気もします。

あと、坑内に作業員を乗せて行く電車みたいなものを「じんしゃ」(人車なのですかね?)と呼んでいました。これは使っていない時には新弥栄町のところに留めてありました。一度乗ってみたかったですが、さすがにいたずら好きの子供でもそこに入って試してみる勇気はありませんでしたが。

では。

> 世間ではトロッコと言ってますが、炭坑ではそうは言ってなかったと思うのです。
> 「炭車」だったような気ももするのですが、どなたか、覚えておられませんか。
 

Re: やっぱりなつかしい町

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2020年 9月 4日(金)16時28分9秒
返信・引用
  > No.387[元記事へ]

新旭町21さんへのお返事です。

はじめまして、弥栄町6番地に住んでいた者です。投稿を拝見していて同級生(私は昭和32年3月の早生まれ)の方だと思い、懐かしさで返信させていただきました。
桂川東小学校の5年、6年の時の担任の先生は中山先生(男性)です。キャンプに連れて行ってくれたりした思い出深い先生です。

わたしも桂川中学1年の確か6月に神奈川に引っ越しましたので、ほとんど境遇としては一緒だと思います。わたしの友達だった子も愛知県に引っ越しましたが、その子は6年生の時に引っ越していますから同じ愛知でも違う方ですね。でももしかするとお父様の就職先が同じ企業だったりして。あの頃、炭鉱に求人に来ていたのはけっこう大手の企業で、高度経済成長期でしたから何十人という単位で採用されて引っ越して行ってましたから。

もう私たちもあとわずかで年金世代。今になって思い出すのはやはり小さい頃のことが多いですね。特に炭鉱閉山後にみんなが一緒に会えるような機会を持ちえなかったから恋しさがますのでしょうかね。

ではまた




> はじめまして、昨年暮れに自分の生まれた吉隈炭鉱の事を調べていて、この掲示板にたどり着くことができました。昭和31年7月生まれです。炭鉱閉山後、桂川中学1年の年末に父の就職先、愛知県へやってきました。吉隈へは、二・三回帰ったことが有ると思いますが、その時、通っていた桂川東小学校が、小学生だった自分が感じていた大きさから、小さく感じられる事に複雑な気持ちを持った事は今でも記憶にあります。桂川中学に入学した際は1年で300名位いたと思いますが、閉山と同時だったのか、転校していく生徒が沢山となり、自分が転校した時は、150名程度になっていたでしょうか?思い出が薄れる前にもう一度故郷をゆっくり訪ねてみたいとおもいます。
 

(無題)

 投稿者:Meamo  投稿日:2020年 7月 3日(金)14時14分20秒
返信・引用
  香川県さぬき市ルーちゃん餃子のフジフーヅは入ったばかりのバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業.中卒オヤジ岸下守の犯行.
裁判で偽証したため会社は潰れました.
こいつです.
https://www.google.com/maps/contrib/108033289100860086931/photos/@34.2633136,134.2139192,14z/data=!4m3!8m2!3m1!1e1?
 

なんて言ってましたか?

 投稿者:松村  投稿日:2020年 2月26日(水)23時08分34秒
返信・引用
  世間ではトロッコと言ってますが、炭坑ではそうは言ってなかったと思うのです。
「炭車」だったような気ももするのですが、どなたか、覚えておられませんか。
 

松村様へ

 投稿者:高橋  投稿日:2019年11月22日(金)11時59分51秒
返信・引用
  ご丁寧にありがとうございます。大叔母は、亡くなる前に我が家を訪ねて一泊しました。子供たちは、それぞれ散ってしまい、音信も途絶えました。
今から、50年ほど前のことですので大昔のことであります。
 

高橋様へ

 投稿者:松村  投稿日:2019年11月22日(金)07時44分6秒
返信・引用
  母(吉隈在住、85歳)に、福田さんの件、聞いてみました。
福田さんは吉隈に住んでおられます。が、この福田さんは比較的新しく
他所より越してこられた方で、お尋ねの方とは違うようです。
あと一つ、昔、母の言によれば「むかーし」ですので、閉山前だろうと思います。
福田さんと言われれる方が居られたそうです。その後、いつの間にか居られなくなった
と言うことです。
私が思うに、閉山時には多くの人が出ていかれたので、さもありなんです。
何も手がかりになりませんでしたが、、、、、。
 

福田ヤスさん

 投稿者:高橋  投稿日:2019年11月10日(日)01時01分45秒
返信・引用
  幸袋在住の高橋です。大叔母の福田ヤスさんが吉隈炭鉱の社宅におりました。生きていれば130歳くらいになります。このかたの子孫の方をご存知ないでしょうか。
ヤスさんの孫の女子生徒(嘉穂東高校)が、朝、列車に乗り遅れまいと近道をして、貨物列車に挟まれて死亡しました。叔母達と車で社宅までお悔やみに行きました。それ以来、吉隈に行ったことがなく、先週久しぶりによりましたが、
昔の面影はなく、福田ヤスさんをご存知の方もなく。ひきあげました。
当方の高雄鉱も同様な状態ですので、当然のことではありますが。
 

松村さんへ

 投稿者:愛知ケン  投稿日:2019年10月 4日(金)10時53分44秒
返信・引用
  早速返信ありがとうございます。松村さんの拙文を読み返して、そうだそうだ、そうゆう事あったな、
そうゆう事もしたなと50年以上前にタイムスリップした気持ちになりました。高1の1学期の途中で
愛知県に引っ越す事になりましたが、私の住んでた炭住は確か下寿2番地だったと思います。
6~7軒のロングハウス(笑)で方角は多分南側だと思うけど、その一番端でした。玄関を出るとすぐに
ちょっとした坂があり、そこを下りたらちょっとした広場(草ボウボウの)があり、その草ぼうぼうの広場で
近所の友達とまさに草野球をした記憶があります。その横はもうバス通りでしたが、車なんか殆ど通らなかったので
危険?ではなかったのかな?では…また……

 

愛知ケンさんへ

 投稿者:松村  投稿日:2019年10月 4日(金)08時17分27秒
返信・引用
  私も偶然に、この掲示板を7月に見つけました。
こちらこそ宜しくお願いします。
 

はじめまして

 投稿者:愛知ケン  投稿日:2019年10月 2日(水)14時21分21秒
返信・引用 編集済
  桂川東小学校をネットで検索していたら、吉隈炭鉱の掲示板に辿りつきました。
あゝ懐かしいと思っておもわず投稿したしだいです。私は昭和41年3月卒業です。
私には3つ下の弟がいましたが、昨年、病気で亡くなりました。それもあり、
眠っていた記憶が色々よみがえり、皆さんの投稿を見ていると本当に懐かしく
思いました。これから宜しくお願いします。

 

ばってんわたるさんへ

 投稿者:松村  投稿日:2019年 8月 9日(金)07時56分23秒
返信・引用
  懐かしい写真ですね。特に、吉隈炭坑の写真は東小学校の通学路等々思い出させて頂いています。  

平山炭鉱

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時58分7秒
返信・引用
  隣の平山炭鉱社宅  

吉隈炭鉱

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時57分21秒
返信・引用
  笹尾社宅があるので
65年以降でしょうね
 

臼井駅

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時55分25秒
返信・引用
  臼井駅の選炭場です  

臼井駅

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時54分16秒
返信・引用
  臼井駅選炭場です  

はじめまして

 投稿者:松村  投稿日:2019年 7月19日(金)21時33分10秒
返信・引用
  1958年上寿生まれ、実家はいまだ新弥栄です。
20年前の私の拙文と絵です。何枚か作りました。
長いですが、懐かしく思って頂ければ幸いです。

「外で遊べ」
『炭坑は三交代制である。一番がた、二番がた、三番がたと言って朝早く、昼間、夜間の就業をしていたようである。
何番がただった忘れたが、昼間にその家の「おやじ」が寝ている事がある。
「安眠中」という赤い布が下げてあるのでそれと分かるのである。
その家の子どもは「外で遊べ」と追い出される事になっている。
もともと、子どもは外で遊ぶ事が殆どであったがそう言って安眠の妨げに警告をしていたのだろう。
子ども達はそんなことにはお構いなく遊び回るのであるが、決まって、安眠中のおやじが出て来て「きさんらしゃあしいぞ!」と怒鳴り
近所のおばさんが「ほーら、向こうに行って遊ばんとたたかるうばい」と言って、子ども達を追っ払うのである。
炭坑長屋に子どもの声が聞こえないと言うことはなかったが、それも、夜には静まる。
しかし、巻き場(トロッコを巻き上げる機械がある場所)や選炭所からの
ガランガランという音は、鳴りっぱなしであった。
その音が、子守歌に聞こえると言うなら、話しもきれいだが、夜は特にうるさく聞こえ「寝られん」と言うと
「仕方なかろうが」と母は言うのである。

上の真ん中の羽子板に車の着いたものが「ボールベアリング」のカートである。

電話は、実は炭坑が閉山する前の我が家には無かった。
確か、私が高校の時でもまだ近所の人が我が家についた電話を借りに来ていたのだから、
その頃にはどの家にも電話は無かったと思う。だから、
この絵の中に電話が有るのは不自然なのだ。浮かんでくる物を書いたのでこうなったに過ぎない。
せっかくなので、電話が我が家についた時の事を書く。
私が中学校の時だったろうと思う。電話を親父がつけると言うのでワクワクして待っていたのだが、
いざ電話がついてみると実の所かける所が無かったのである。
結局親が、親戚にかける電話の受話器を取り上げてそこから聞こえてくる声に感動したものである。
電話が鳴るたびに兄弟で競って出、その内、学校で電話の付いている奴の電話番号を聞き、
そう親しくもないのにかけたりしていた。

右下のプレートは、炭住につけられていた町名と番地である。
ブリキ板に白ペンキを塗りその上に黒ペンキで「弥栄52」「寿町12」というように書いてあり、
長屋の横に釘付けしてあった。長屋は3~4件続きでどこも同じつくりである。
そのつくりが違う家が、炭住の中に何件かあった。職員社宅である。
まず、屋根が高い、まったく偉そうに見えた。玄関がある。炭住にもあるにはあったが、
炭住のものは、申し訳程度にスレートのひさしが付いているだけであるのに対し、
職員社宅のものは、ひと屋根突き出ていた。さて間取りだが、
これが全然違う、違うと思う。
というのは、私は職員社宅にお邪魔したことがないのである。

職員社宅で思い出したので横道にずれるが。
5年生の時、卒業式で送辞を読んだ。
確か担任のご指名であったと思う。
後にこのことについて、何故私が選ばれたのか、職員の子に読ませればよかったのにという話が出ていたそうである。
並はずれて優秀だったわけではない、どちらかというと問題ありの私が指名された理由は分からない。
しかし、常に職員の子との間にあった言葉に出来にくいもの、
あえて言うなら偏見、差別に対しての、当時の先生達の闘いであったのではないか。私はそう考えている。

あき缶は、使い途が多い。まずなんと言ってもカン蹴りに、これは必ず居る。
代用は効かない。これにひもをつけてカン乗りが出来る。
虫や蛙を入れて持ち歩く。時々2B弾で虐殺する。
スコップ代わりにして穴を掘る。
アイデア賞は、カンテラである。これに針金をつけて吊せるようにし、ろうそくを中に灯すのである。
但し、この場合絶対にカンを触れてはならない、火傷をする。』










 

記憶をつなぎ合わせるー3

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月15日(月)17時27分16秒
返信・引用
  新旭町21  さんへ

こんな記憶もありますか? (下手な絵!製作途中でえす。)

●旧)小関散髪屋さんの前近くから旭町ー花田商店の方向の眺め!途中 右手には、売店、風呂場洗炭場から流れてくる真っ黒い水が流れ、橋を渡った直ぐ近くにもお店がありましたね?坂の登り口近くに!

●昔々、親父に言われこの売店まで空のビンを持って行き、酒を買いに行ったような記憶があります。新旭町21さんには、多分分からないかも知れませんね?

では、、また、、、、



 

記憶をつなぎ合わせる -2

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月15日(月)11時33分29秒
返信・引用
  新旭町21  さんへ

大変近い所に住んでおられたのですね?
カズヒロ さんは記憶にありません。
私の知っているワタナベさんは、アイコ、マナブ、マユミ、エツコ、ミサコさん7人家族でしたね?多分 エツコ、ミサコさんが生まれていなかった?のかも?

その家は、その上り道の左手の2軒目か3件目だったと思います。一軒目はヤマダさん、3軒目は、(ツノダさん?カドタさん?)登りのスロープに”炭鉱町には不似合いな綺麗なバラの花を栽培されておられていたように記憶しています。きれいだった!

新旭町は有ったと思います。その道を登って行った所の正面(巻き上げ場)、右側に新築の
2軒、3軒続きの麗な住宅だったように思います。

厳然として存在する事実(現在)と、消滅してしまった(過去)の思い出は、双方があってこそ”ふるさと”と言えるのは? 炭鉱町を離れた人々にとっての”ふるさと”は、”ボタヤマ”と”炭鉱弁”しかありません。 今は全く話せません。
しかし、その町に行けばきっと 話をできるのでしょうね?!

ブラジルに渡られた方々の多くは、当時 神戸港から西回りでブラジルまで行かれているそうです。恥ずかしながら、今まで全く知りませんでした。太平洋を渡られたとばかり思っていました。
日本を思い出す風景は、炭鉱町の風景なのでしょうか?神戸港町の風景なのでしょうか?
一度聞ければと思っていますが、是も夢の話かも?


以上




 

記憶をつなぎ合わせる

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 4月14日(日)23時05分41秒
返信・引用
  弥栄59さんへ、絵は私の記憶にかなり近いものでした。特にトンネルは、その付近でよく遊んでいた記憶があります。トンネルの上は石炭を積んだトロッコが通るレールがあったはずです。ちなみに、私が生まれたときはどうも花田商店の登り口付近に住んでいたようです。その後丘の上の住宅ができたときに引っ越したように父から聞いた覚えがあります。ちなみに花田商店に一時期、母が今で言うパートで働いていたように記憶しています。お隣はワタナベさん?だったのでしょうか?お隣は姉妹二人で、上が「れいこ」ねいちゃんと慕っていたことを覚えています。よく遊んでいたのが、近くの2歳ぐらいしたのカズヒロくんだった記憶があります。ちなみに、私が覚えている新旭町は実在したのでしょうか?その地を訪れたとしても、痕跡さえ無い今その事が分かっても意味をなさないのに気になるのはなぜなんでしょうか、不思議です。  

記憶の片隅

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月13日(土)15時07分58秒
返信・引用
  新旭町21さんへ

子供の頃の記憶は恐ろしいもので、60数年を経っても記憶しているものですね?
新旭町21さんは、多分”申年”では? 近くの家に”コバヤシ タダシ”さんは住んでいませんでしたか?(私の中学の同級生) 新旭町21さんの同級生に”シラサカ トシゾウ?”さんはいませんでしたか?この道の右手のある炭住にすんでいましたね!
私が旭町に住んでいた頃は、正に言われていると通りの道の最初の登り口の右手の炭住でした。
この長屋の”花田商店側”に住んでおられた、確か”迫田さん一家4人”でした。
添付の絵は、其処に近いものと思います。ボタヤマの位置関係は若干の差異は有りますが、まあ!いいか!と思いつつ、、、、

昨日 神戸市立海外移住と文化の交流センターに行ってきました。
①4/28日 第16回 ブラジル移民祭2019の参加の申し込み
②同センターでのボランテイアにての日本語サポートの登録と授業風景の見学をしてきました。日本語の習得に苦労をされているようで子供も大人も、、、!残りの私の趣味の時間を此処に通うことに成るかも知れません。
外国人 労働者の日本での受け入れ枠の拡大は賛否両論は有ろうかとは思いますが、日本側の受け入れ態勢の遅れを感じました。

飛び入りで行きましたので、60年前のブラジル渡航の神戸港からの乗船名簿の件は話し出せず、来週 木曜日に確認することにしました。

記憶の片隅にある吉隈炭鉱を自由に(鉛筆、水彩、油絵等々)描いてみれば何が出てくるかも知れませんね ?

では、、、、
 

記憶の片隅

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 4月12日(金)22時48分58秒
返信・引用
  お久しぶりです。私が住んでいた場所は2軒長屋でした。その住所が新旭町21だったのかは不明です。ゴロあわせ的なのでしょうか新旭町21が自然に出てきました!覚えているのは西鉄バスの炭鉱入口バス停から二番目?のバス停、花田商店?の前の停留所を登った丘の上のすぐ右手の社宅に住んでいました。3畳の部屋に板張りの食堂。六畳・八畳ぐらいの3DKの社宅でした。南向きの社宅だったとすると北側に入坑口があり、小さかった頃、炭鉱事故があったような記憶があります。掲示板の文章を探しても花田商店は見当たらないので、違っていたのかもしれません。50年も前の記憶はつぎはぎだらけです。やはり残念なのは、中学1年に閉山と共に転校したことで、記憶も知り合いも中途半端になっている事でしょうか?  

boro さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月 7日(日)22時47分36秒
返信・引用
  boro  さんへ

暑くなれば、寒い方がいいと言うし、逆ももまた、、、
吉隈炭鉱の冬もとても寒かったように記憶しています。其れをイメージして雪を降らせてみました。こんな景色もあったような、、、、、、描いたり、消したり、、、

日本が世界に誇れる天才浮世絵画家 葛飾北斎さんが描かれた富岳36景は 72歳の時に世間に発表されています。そうなんだ!と考え 吉隈36景でもトライするか?と勝手に考えているところでした。boroさんの言われるように”絵心は別にして書いたものを持ち寄りたいものですね”に賛同するものです。
これ等の絵を元に アルバム、絵葉書、過去誌の表紙などに使えれば、貴重な桂川町の吉隈の財産になるのではと思うのですが、、、、時代の少し早い、boroさんの絵を楽しみにしています。

話は変わりますが、1960年(昭和35年)当時、三井炭鉱離職者対策としてブラジル移住促進がされていたようです。恐らく、吉隈炭鉱からも神戸港からブラジル、パラグアイ等へ旅立たれた方々もおられるのではないかと推測する次第です。今月末に 神戸で”ブラジル祭り”が企画されているようなので、顔を出してみょうかと思っています。
多分無理とは思いますが、神戸港での乗船名簿などを確認し、現地ブラジル日本人会へ照会してみたいとも思っています。 (旭町に住んでいた頃の炭住の一番端に住まわれていた”S"さん家族 4人)どうしているのか? と、、、、
今までに調べたことも無かったのですが、計画移住の90%近くが福岡県出身者であると言う事実!  驚いた!全く知らなかった!

新旭町21 さん 本掲示板を観られていますか?





 

風への返信

 投稿者:boro  投稿日:2019年 4月 7日(日)09時29分34秒
返信・引用
  弥栄59さん ありがとうございます。

私と同じ年の桂川東小学校の卒業生が5人。3月17日の中学校の同期会に集まりました。
やはり故郷が、人が恋しかったのでしょう。「故郷は遠きにありて想うもの」ですか、その故郷とは何か。
まして我々は、有形のものは無くなってしまいました。ボタ山はなく、炭住もなく、陥落池も改良工事でなくなり、幼き頃の吉隈炭鉱界隈の山川が無くなってしまいましたが、無形のものとして、弥栄59さんはじめ、私たちの脳裏にそれぞれの絵が残っているというわけですよね。今から頑張れば80歳には数点描けるかも。絵心は別にして書いたものを持ち寄りたいものですね。
 このような気持ちさせる「風」が今、この交流掲示板を見ている人に吹いているのではないでしょうか。
 そんなことで、1枚も描いていないのに勝手な妄想が沸いてきます。10日間の休みに頑張りましょう。
今は桜の写真撮影と年度替わりの諸業務で、仕事に、町会活動に時間を取られています。
では、また。
 

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月 3日(水)11時32分3秒
返信・引用
  boro  さんへ

約50年前の風景を思い出しながら 現在”絵”を描いている所なんです。
結構 覚えているもんです。
一こま、一こまを描いていたら、全体が見えなくなってきたので、布を張り合わせで、ボタ山に登ったつもりで見える範囲で全体を書いています。
次から描く絵は何処から見た景色なのかを説明し易くなりそうなので、、、

桂川町を離れ一つの仕事が終わり、さて、、、と考えた時に思い浮かぶのは在りし日の”ボタ山”炭鉱の景色しかなく!
残りたくても残れない。残っても将来が見えなければ、出るしか方策が無くこの町をでましたが過ぎ去りし年月を感じています。 私自身も何時の間にこんな歳になったのかと、、

此の絵を描きながら、あの時の”風”は今はもう流れていないことは自覚しているのですが、、
”何かを求めて振り返っても そこには ただ 風が吹いているだけ” 昭和44年に流行した歌と 言うことなのでしょうか?

*平山のボタヤマは一段 ”赤茶け”ていて吉隈のボタヤマが”勝った””格好がいい”と思っていました。単純なもんです。


では、失礼します。





 

弥栄59さんへ

 投稿者:boro  投稿日:2019年 4月 3日(水)09時34分53秒
返信・引用
  いやいや吉隈の炭鉱の思い出を絵に残されているとは、いいですね。私も目をつぶると走馬灯のようにいろいろな思い出が脳裏に浮かんます。年でしょうか。この思い出を自分なりの風景として絵にできたらとふと思っています。これからのライフワークの一つになるような気がします。弥栄59さんの絵は、弥栄の方からの絵ですね。私は5歳から18歳まで
宝町、栄町、笹尾町でしたので少し風景が異なりますが、小学生6年生で新聞配達を上寿、下寿、奥寿としていましたので「通り」などはよく理解できますよ。右の小さなぼた山は
明治鉱業の平山と天道炭鉱のぼた山でしょうか。今は嘉穂総合高校がこの地にありますよ。懐かしいの一言です。ありがとうございました。
では、また。
 

新旭町21さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 3月31日(日)22時15分16秒
返信・引用
  先の2件の書き込みは削除しました。
GOOGLE MAP で、(現)吉隈炭鉱を検索すれば一目瞭然のことですが、私も同じように約50年前の吉隈炭鉱を離れた時の面影は皆無に近い話だと思います。
私が吉隈炭鉱を離れた時の風景を思い出しながら、”ああだったような?””こうだったような”のあやふやな記憶を思い出しながら 又、一歩離れての距離感で此の絵を書いています。
私は”PROの絵描きさん”ではありませんので何も気にすることも無く、適当に18歳(高校卒業するまでの)麻生 吉隈鉱業所の思い出を描いています。

この下手な絵は、”世界に1枚”しかありません。(何処を探しても出て来ないと思い!)
此の中に”新旭町21さん”の住まわれていた所はありますか?
私の記憶も遠い過去でもあり、各住宅の数、方向等も曖昧に近くご教示頂ければと、、、
これを見て、昔を思い出しご家族との話も弾めばと、、、

以上





 

Re: 新旭町21さんへ

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 3月26日(火)17時15分37秒
返信・引用
  > No.388[元記事へ]

boroさんへのお返事です。

boroさんは8歳年上の様ですが、私の姉が7歳年上なので、同じ時間を桂川中学で過ごされたのでしょうね。吉隈を出られたのは、高校を卒業されてからの事でしょうか?私は残念なことに桂川中学を卒業することなく転校したため、同級生もたぶん色々な地方にバラバラになってしまい。同窓会とは縁がありません。愛知に移った当初は、言葉の違いなどで少し悩みましたが、それでもありがたい事に新しい中学の同級生は優しく接してくれたことに感謝しています。それでも桂川中学に卒業まで在籍していたら、今とは違う人生があったかもと思う事もありました。時間は徐々にスピードを増して過ぎていく様です。人生の終盤を最初の故郷で迎えれたら少し幸せに感じるかなと思います。
 

新旭町21さんへ

 投稿者:boro  投稿日:2019年 3月26日(火)11時55分46秒
返信・引用
  私は昭和23年生まれですので随分おじさんですが、3月17日に桂川中学校の昭和39年卒の同期会に参加してきました。場所は飯塚市の勝盛遊園の隣の旧寿会館でした。
中学校の同期会でしたが、主に話あった仲間は幼稚園・東小学校の仲間でした。東京に出て35年。文通だけの仲間もいて感激。頭は白髪や禿でもあの頃にタイムスリップでしたよ。
3年前に吉隈炭鉱跡に戻った時は、グーグルなどの地図では変化があったことは承知していましたが、その様変わりには驚きました。
今回の同期会には当日に行き、翌朝戻るというハードスケジュール(新幹線往復で体調を崩し、風邪薬を飲む羽目に)でしたが、貴君と同様、ゆっくりと戻ってみたいと思います。
車窓の長谷山は変わってなく、迎えてくれそうです。
 

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