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 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
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なんて言ってましたか?

 投稿者:松村  投稿日:2020年 2月26日(水)23時08分34秒
返信・引用
  世間ではトロッコと言ってますが、炭坑ではそうは言ってなかったと思うのです。
「炭車」だったような気ももするのですが、どなたか、覚えておられませんか。
 
 

松村様へ

 投稿者:高橋  投稿日:2019年11月22日(金)11時59分51秒
返信・引用
  ご丁寧にありがとうございます。大叔母は、亡くなる前に我が家を訪ねて一泊しました。子供たちは、それぞれ散ってしまい、音信も途絶えました。
今から、50年ほど前のことですので大昔のことであります。
 

高橋様へ

 投稿者:松村  投稿日:2019年11月22日(金)07時44分6秒
返信・引用
  母(吉隈在住、85歳)に、福田さんの件、聞いてみました。
福田さんは吉隈に住んでおられます。が、この福田さんは比較的新しく
他所より越してこられた方で、お尋ねの方とは違うようです。
あと一つ、昔、母の言によれば「むかーし」ですので、閉山前だろうと思います。
福田さんと言われれる方が居られたそうです。その後、いつの間にか居られなくなった
と言うことです。
私が思うに、閉山時には多くの人が出ていかれたので、さもありなんです。
何も手がかりになりませんでしたが、、、、、。
 

福田ヤスさん

 投稿者:高橋  投稿日:2019年11月10日(日)01時01分45秒
返信・引用
  幸袋在住の高橋です。大叔母の福田ヤスさんが吉隈炭鉱の社宅におりました。生きていれば130歳くらいになります。このかたの子孫の方をご存知ないでしょうか。
ヤスさんの孫の女子生徒(嘉穂東高校)が、朝、列車に乗り遅れまいと近道をして、貨物列車に挟まれて死亡しました。叔母達と車で社宅までお悔やみに行きました。それ以来、吉隈に行ったことがなく、先週久しぶりによりましたが、
昔の面影はなく、福田ヤスさんをご存知の方もなく。ひきあげました。
当方の高雄鉱も同様な状態ですので、当然のことではありますが。
 

松村さんへ

 投稿者:愛知ケン  投稿日:2019年10月 4日(金)10時53分44秒
返信・引用
  早速返信ありがとうございます。松村さんの拙文を読み返して、そうだそうだ、そうゆう事あったな、
そうゆう事もしたなと50年以上前にタイムスリップした気持ちになりました。高1の1学期の途中で
愛知県に引っ越す事になりましたが、私の住んでた炭住は確か下寿2番地だったと思います。
6~7軒のロングハウス(笑)で方角は多分南側だと思うけど、その一番端でした。玄関を出るとすぐに
ちょっとした坂があり、そこを下りたらちょっとした広場(草ボウボウの)があり、その草ぼうぼうの広場で
近所の友達とまさに草野球をした記憶があります。その横はもうバス通りでしたが、車なんか殆ど通らなかったので
危険?ではなかったのかな?では…また……

 

愛知ケンさんへ

 投稿者:松村  投稿日:2019年10月 4日(金)08時17分27秒
返信・引用
  私も偶然に、この掲示板を7月に見つけました。
こちらこそ宜しくお願いします。
 

はじめまして

 投稿者:愛知ケン  投稿日:2019年10月 2日(水)14時21分21秒
返信・引用 編集済
  桂川東小学校をネットで検索していたら、吉隈炭鉱の掲示板に辿りつきました。
あゝ懐かしいと思っておもわず投稿したしだいです。私は昭和41年3月卒業です。
私には3つ下の弟がいましたが、昨年、病気で亡くなりました。それもあり、
眠っていた記憶が色々よみがえり、皆さんの投稿を見ていると本当に懐かしく
思いました。これから宜しくお願いします。

 

ばってんわたるさんへ

 投稿者:松村  投稿日:2019年 8月 9日(金)07時56分23秒
返信・引用
  懐かしい写真ですね。特に、吉隈炭坑の写真は東小学校の通学路等々思い出させて頂いています。  

平山炭鉱

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時58分7秒
返信・引用
  隣の平山炭鉱社宅  

吉隈炭鉱

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時57分21秒
返信・引用
  笹尾社宅があるので
65年以降でしょうね
 

臼井駅

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時55分25秒
返信・引用
  臼井駅の選炭場です  

臼井駅

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2019年 8月 7日(水)20時54分16秒
返信・引用
  臼井駅選炭場です  

はじめまして

 投稿者:松村  投稿日:2019年 7月19日(金)21時33分10秒
返信・引用
  1958年上寿生まれ、実家はいまだ新弥栄です。
20年前の私の拙文と絵です。何枚か作りました。
長いですが、懐かしく思って頂ければ幸いです。

「外で遊べ」
『炭坑は三交代制である。一番がた、二番がた、三番がたと言って朝早く、昼間、夜間の就業をしていたようである。
何番がただった忘れたが、昼間にその家の「おやじ」が寝ている事がある。
「安眠中」という赤い布が下げてあるのでそれと分かるのである。
その家の子どもは「外で遊べ」と追い出される事になっている。
もともと、子どもは外で遊ぶ事が殆どであったがそう言って安眠の妨げに警告をしていたのだろう。
子ども達はそんなことにはお構いなく遊び回るのであるが、決まって、安眠中のおやじが出て来て「きさんらしゃあしいぞ!」と怒鳴り
近所のおばさんが「ほーら、向こうに行って遊ばんとたたかるうばい」と言って、子ども達を追っ払うのである。
炭坑長屋に子どもの声が聞こえないと言うことはなかったが、それも、夜には静まる。
しかし、巻き場(トロッコを巻き上げる機械がある場所)や選炭所からの
ガランガランという音は、鳴りっぱなしであった。
その音が、子守歌に聞こえると言うなら、話しもきれいだが、夜は特にうるさく聞こえ「寝られん」と言うと
「仕方なかろうが」と母は言うのである。

上の真ん中の羽子板に車の着いたものが「ボールベアリング」のカートである。

電話は、実は炭坑が閉山する前の我が家には無かった。
確か、私が高校の時でもまだ近所の人が我が家についた電話を借りに来ていたのだから、
その頃にはどの家にも電話は無かったと思う。だから、
この絵の中に電話が有るのは不自然なのだ。浮かんでくる物を書いたのでこうなったに過ぎない。
せっかくなので、電話が我が家についた時の事を書く。
私が中学校の時だったろうと思う。電話を親父がつけると言うのでワクワクして待っていたのだが、
いざ電話がついてみると実の所かける所が無かったのである。
結局親が、親戚にかける電話の受話器を取り上げてそこから聞こえてくる声に感動したものである。
電話が鳴るたびに兄弟で競って出、その内、学校で電話の付いている奴の電話番号を聞き、
そう親しくもないのにかけたりしていた。

右下のプレートは、炭住につけられていた町名と番地である。
ブリキ板に白ペンキを塗りその上に黒ペンキで「弥栄52」「寿町12」というように書いてあり、
長屋の横に釘付けしてあった。長屋は3~4件続きでどこも同じつくりである。
そのつくりが違う家が、炭住の中に何件かあった。職員社宅である。
まず、屋根が高い、まったく偉そうに見えた。玄関がある。炭住にもあるにはあったが、
炭住のものは、申し訳程度にスレートのひさしが付いているだけであるのに対し、
職員社宅のものは、ひと屋根突き出ていた。さて間取りだが、
これが全然違う、違うと思う。
というのは、私は職員社宅にお邪魔したことがないのである。

職員社宅で思い出したので横道にずれるが。
5年生の時、卒業式で送辞を読んだ。
確か担任のご指名であったと思う。
後にこのことについて、何故私が選ばれたのか、職員の子に読ませればよかったのにという話が出ていたそうである。
並はずれて優秀だったわけではない、どちらかというと問題ありの私が指名された理由は分からない。
しかし、常に職員の子との間にあった言葉に出来にくいもの、
あえて言うなら偏見、差別に対しての、当時の先生達の闘いであったのではないか。私はそう考えている。

あき缶は、使い途が多い。まずなんと言ってもカン蹴りに、これは必ず居る。
代用は効かない。これにひもをつけてカン乗りが出来る。
虫や蛙を入れて持ち歩く。時々2B弾で虐殺する。
スコップ代わりにして穴を掘る。
アイデア賞は、カンテラである。これに針金をつけて吊せるようにし、ろうそくを中に灯すのである。
但し、この場合絶対にカンを触れてはならない、火傷をする。』










 

記憶をつなぎ合わせるー3

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月15日(月)17時27分16秒
返信・引用
  新旭町21  さんへ

こんな記憶もありますか? (下手な絵!製作途中でえす。)

●旧)小関散髪屋さんの前近くから旭町ー花田商店の方向の眺め!途中 右手には、売店、風呂場洗炭場から流れてくる真っ黒い水が流れ、橋を渡った直ぐ近くにもお店がありましたね?坂の登り口近くに!

●昔々、親父に言われこの売店まで空のビンを持って行き、酒を買いに行ったような記憶があります。新旭町21さんには、多分分からないかも知れませんね?

では、、また、、、、



 

記憶をつなぎ合わせる -2

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月15日(月)11時33分29秒
返信・引用
  新旭町21  さんへ

大変近い所に住んでおられたのですね?
カズヒロ さんは記憶にありません。
私の知っているワタナベさんは、アイコ、マナブ、マユミ、エツコ、ミサコさん7人家族でしたね?多分 エツコ、ミサコさんが生まれていなかった?のかも?

その家は、その上り道の左手の2軒目か3件目だったと思います。一軒目はヤマダさん、3軒目は、(ツノダさん?カドタさん?)登りのスロープに”炭鉱町には不似合いな綺麗なバラの花を栽培されておられていたように記憶しています。きれいだった!

新旭町は有ったと思います。その道を登って行った所の正面(巻き上げ場)、右側に新築の
2軒、3軒続きの麗な住宅だったように思います。

厳然として存在する事実(現在)と、消滅してしまった(過去)の思い出は、双方があってこそ”ふるさと”と言えるのは? 炭鉱町を離れた人々にとっての”ふるさと”は、”ボタヤマ”と”炭鉱弁”しかありません。 今は全く話せません。
しかし、その町に行けばきっと 話をできるのでしょうね?!

ブラジルに渡られた方々の多くは、当時 神戸港から西回りでブラジルまで行かれているそうです。恥ずかしながら、今まで全く知りませんでした。太平洋を渡られたとばかり思っていました。
日本を思い出す風景は、炭鉱町の風景なのでしょうか?神戸港町の風景なのでしょうか?
一度聞ければと思っていますが、是も夢の話かも?


以上




 

記憶をつなぎ合わせる

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 4月14日(日)23時05分41秒
返信・引用
  弥栄59さんへ、絵は私の記憶にかなり近いものでした。特にトンネルは、その付近でよく遊んでいた記憶があります。トンネルの上は石炭を積んだトロッコが通るレールがあったはずです。ちなみに、私が生まれたときはどうも花田商店の登り口付近に住んでいたようです。その後丘の上の住宅ができたときに引っ越したように父から聞いた覚えがあります。ちなみに花田商店に一時期、母が今で言うパートで働いていたように記憶しています。お隣はワタナベさん?だったのでしょうか?お隣は姉妹二人で、上が「れいこ」ねいちゃんと慕っていたことを覚えています。よく遊んでいたのが、近くの2歳ぐらいしたのカズヒロくんだった記憶があります。ちなみに、私が覚えている新旭町は実在したのでしょうか?その地を訪れたとしても、痕跡さえ無い今その事が分かっても意味をなさないのに気になるのはなぜなんでしょうか、不思議です。  

記憶の片隅

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月13日(土)15時07分58秒
返信・引用
  新旭町21さんへ

子供の頃の記憶は恐ろしいもので、60数年を経っても記憶しているものですね?
新旭町21さんは、多分”申年”では? 近くの家に”コバヤシ タダシ”さんは住んでいませんでしたか?(私の中学の同級生) 新旭町21さんの同級生に”シラサカ トシゾウ?”さんはいませんでしたか?この道の右手のある炭住にすんでいましたね!
私が旭町に住んでいた頃は、正に言われていると通りの道の最初の登り口の右手の炭住でした。
この長屋の”花田商店側”に住んでおられた、確か”迫田さん一家4人”でした。
添付の絵は、其処に近いものと思います。ボタヤマの位置関係は若干の差異は有りますが、まあ!いいか!と思いつつ、、、、

昨日 神戸市立海外移住と文化の交流センターに行ってきました。
①4/28日 第16回 ブラジル移民祭2019の参加の申し込み
②同センターでのボランテイアにての日本語サポートの登録と授業風景の見学をしてきました。日本語の習得に苦労をされているようで子供も大人も、、、!残りの私の趣味の時間を此処に通うことに成るかも知れません。
外国人 労働者の日本での受け入れ枠の拡大は賛否両論は有ろうかとは思いますが、日本側の受け入れ態勢の遅れを感じました。

飛び入りで行きましたので、60年前のブラジル渡航の神戸港からの乗船名簿の件は話し出せず、来週 木曜日に確認することにしました。

記憶の片隅にある吉隈炭鉱を自由に(鉛筆、水彩、油絵等々)描いてみれば何が出てくるかも知れませんね ?

では、、、、
 

記憶の片隅

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 4月12日(金)22時48分58秒
返信・引用
  お久しぶりです。私が住んでいた場所は2軒長屋でした。その住所が新旭町21だったのかは不明です。ゴロあわせ的なのでしょうか新旭町21が自然に出てきました!覚えているのは西鉄バスの炭鉱入口バス停から二番目?のバス停、花田商店?の前の停留所を登った丘の上のすぐ右手の社宅に住んでいました。3畳の部屋に板張りの食堂。六畳・八畳ぐらいの3DKの社宅でした。南向きの社宅だったとすると北側に入坑口があり、小さかった頃、炭鉱事故があったような記憶があります。掲示板の文章を探しても花田商店は見当たらないので、違っていたのかもしれません。50年も前の記憶はつぎはぎだらけです。やはり残念なのは、中学1年に閉山と共に転校したことで、記憶も知り合いも中途半端になっている事でしょうか?  

boro さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月 7日(日)22時47分36秒
返信・引用
  boro  さんへ

暑くなれば、寒い方がいいと言うし、逆ももまた、、、
吉隈炭鉱の冬もとても寒かったように記憶しています。其れをイメージして雪を降らせてみました。こんな景色もあったような、、、、、、描いたり、消したり、、、

日本が世界に誇れる天才浮世絵画家 葛飾北斎さんが描かれた富岳36景は 72歳の時に世間に発表されています。そうなんだ!と考え 吉隈36景でもトライするか?と勝手に考えているところでした。boroさんの言われるように”絵心は別にして書いたものを持ち寄りたいものですね”に賛同するものです。
これ等の絵を元に アルバム、絵葉書、過去誌の表紙などに使えれば、貴重な桂川町の吉隈の財産になるのではと思うのですが、、、、時代の少し早い、boroさんの絵を楽しみにしています。

話は変わりますが、1960年(昭和35年)当時、三井炭鉱離職者対策としてブラジル移住促進がされていたようです。恐らく、吉隈炭鉱からも神戸港からブラジル、パラグアイ等へ旅立たれた方々もおられるのではないかと推測する次第です。今月末に 神戸で”ブラジル祭り”が企画されているようなので、顔を出してみょうかと思っています。
多分無理とは思いますが、神戸港での乗船名簿などを確認し、現地ブラジル日本人会へ照会してみたいとも思っています。 (旭町に住んでいた頃の炭住の一番端に住まわれていた”S"さん家族 4人)どうしているのか? と、、、、
今までに調べたことも無かったのですが、計画移住の90%近くが福岡県出身者であると言う事実!  驚いた!全く知らなかった!

新旭町21 さん 本掲示板を観られていますか?





 

風への返信

 投稿者:boro  投稿日:2019年 4月 7日(日)09時29分34秒
返信・引用
  弥栄59さん ありがとうございます。

私と同じ年の桂川東小学校の卒業生が5人。3月17日の中学校の同期会に集まりました。
やはり故郷が、人が恋しかったのでしょう。「故郷は遠きにありて想うもの」ですか、その故郷とは何か。
まして我々は、有形のものは無くなってしまいました。ボタ山はなく、炭住もなく、陥落池も改良工事でなくなり、幼き頃の吉隈炭鉱界隈の山川が無くなってしまいましたが、無形のものとして、弥栄59さんはじめ、私たちの脳裏にそれぞれの絵が残っているというわけですよね。今から頑張れば80歳には数点描けるかも。絵心は別にして書いたものを持ち寄りたいものですね。
 このような気持ちさせる「風」が今、この交流掲示板を見ている人に吹いているのではないでしょうか。
 そんなことで、1枚も描いていないのに勝手な妄想が沸いてきます。10日間の休みに頑張りましょう。
今は桜の写真撮影と年度替わりの諸業務で、仕事に、町会活動に時間を取られています。
では、また。
 

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 4月 3日(水)11時32分3秒
返信・引用
  boro  さんへ

約50年前の風景を思い出しながら 現在”絵”を描いている所なんです。
結構 覚えているもんです。
一こま、一こまを描いていたら、全体が見えなくなってきたので、布を張り合わせで、ボタ山に登ったつもりで見える範囲で全体を書いています。
次から描く絵は何処から見た景色なのかを説明し易くなりそうなので、、、

桂川町を離れ一つの仕事が終わり、さて、、、と考えた時に思い浮かぶのは在りし日の”ボタ山”炭鉱の景色しかなく!
残りたくても残れない。残っても将来が見えなければ、出るしか方策が無くこの町をでましたが過ぎ去りし年月を感じています。 私自身も何時の間にこんな歳になったのかと、、

此の絵を描きながら、あの時の”風”は今はもう流れていないことは自覚しているのですが、、
”何かを求めて振り返っても そこには ただ 風が吹いているだけ” 昭和44年に流行した歌と 言うことなのでしょうか?

*平山のボタヤマは一段 ”赤茶け”ていて吉隈のボタヤマが”勝った””格好がいい”と思っていました。単純なもんです。


では、失礼します。





 

弥栄59さんへ

 投稿者:boro  投稿日:2019年 4月 3日(水)09時34分53秒
返信・引用
  いやいや吉隈の炭鉱の思い出を絵に残されているとは、いいですね。私も目をつぶると走馬灯のようにいろいろな思い出が脳裏に浮かんます。年でしょうか。この思い出を自分なりの風景として絵にできたらとふと思っています。これからのライフワークの一つになるような気がします。弥栄59さんの絵は、弥栄の方からの絵ですね。私は5歳から18歳まで
宝町、栄町、笹尾町でしたので少し風景が異なりますが、小学生6年生で新聞配達を上寿、下寿、奥寿としていましたので「通り」などはよく理解できますよ。右の小さなぼた山は
明治鉱業の平山と天道炭鉱のぼた山でしょうか。今は嘉穂総合高校がこの地にありますよ。懐かしいの一言です。ありがとうございました。
では、また。
 

新旭町21さんへ

 投稿者:弥栄59  投稿日:2019年 3月31日(日)22時15分16秒
返信・引用
  先の2件の書き込みは削除しました。
GOOGLE MAP で、(現)吉隈炭鉱を検索すれば一目瞭然のことですが、私も同じように約50年前の吉隈炭鉱を離れた時の面影は皆無に近い話だと思います。
私が吉隈炭鉱を離れた時の風景を思い出しながら、”ああだったような?””こうだったような”のあやふやな記憶を思い出しながら 又、一歩離れての距離感で此の絵を書いています。
私は”PROの絵描きさん”ではありませんので何も気にすることも無く、適当に18歳(高校卒業するまでの)麻生 吉隈鉱業所の思い出を描いています。

この下手な絵は、”世界に1枚”しかありません。(何処を探しても出て来ないと思い!)
此の中に”新旭町21さん”の住まわれていた所はありますか?
私の記憶も遠い過去でもあり、各住宅の数、方向等も曖昧に近くご教示頂ければと、、、
これを見て、昔を思い出しご家族との話も弾めばと、、、

以上





 

Re: 新旭町21さんへ

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 3月26日(火)17時15分37秒
返信・引用
  > No.388[元記事へ]

boroさんへのお返事です。

boroさんは8歳年上の様ですが、私の姉が7歳年上なので、同じ時間を桂川中学で過ごされたのでしょうね。吉隈を出られたのは、高校を卒業されてからの事でしょうか?私は残念なことに桂川中学を卒業することなく転校したため、同級生もたぶん色々な地方にバラバラになってしまい。同窓会とは縁がありません。愛知に移った当初は、言葉の違いなどで少し悩みましたが、それでもありがたい事に新しい中学の同級生は優しく接してくれたことに感謝しています。それでも桂川中学に卒業まで在籍していたら、今とは違う人生があったかもと思う事もありました。時間は徐々にスピードを増して過ぎていく様です。人生の終盤を最初の故郷で迎えれたら少し幸せに感じるかなと思います。
 

新旭町21さんへ

 投稿者:boro  投稿日:2019年 3月26日(火)11時55分46秒
返信・引用
  私は昭和23年生まれですので随分おじさんですが、3月17日に桂川中学校の昭和39年卒の同期会に参加してきました。場所は飯塚市の勝盛遊園の隣の旧寿会館でした。
中学校の同期会でしたが、主に話あった仲間は幼稚園・東小学校の仲間でした。東京に出て35年。文通だけの仲間もいて感激。頭は白髪や禿でもあの頃にタイムスリップでしたよ。
3年前に吉隈炭鉱跡に戻った時は、グーグルなどの地図では変化があったことは承知していましたが、その様変わりには驚きました。
今回の同期会には当日に行き、翌朝戻るというハードスケジュール(新幹線往復で体調を崩し、風邪薬を飲む羽目に)でしたが、貴君と同様、ゆっくりと戻ってみたいと思います。
車窓の長谷山は変わってなく、迎えてくれそうです。
 

やっぱりなつかしい町

 投稿者:新旭町21  投稿日:2019年 3月25日(月)19時35分47秒
返信・引用
  はじめまして、昨年暮れに自分の生まれた吉隈炭鉱の事を調べていて、この掲示板にたどり着くことができました。昭和31年7月生まれです。炭鉱閉山後、桂川中学1年の年末に父の就職先、愛知県へやってきました。吉隈へは、二・三回帰ったことが有ると思いますが、その時、通っていた桂川東小学校が、小学生だった自分が感じていた大きさから、小さく感じられる事に複雑な気持ちを持った事は今でも記憶にあります。桂川中学に入学した際は1年で300名位いたと思いますが、閉山と同時だったのか、転校していく生徒が沢山となり、自分が転校した時は、150名程度になっていたでしょうか?思い出が薄れる前にもう一度故郷をゆっくり訪ねてみたいとおもいます。  

吹奏楽部OB会

 投稿者:中嶋清重(げんジー)  投稿日:2018年 7月18日(水)10時41分56秒
返信・引用
  桂川中学校吹奏楽部の第2回OB会が12月22日(土)に決まりました。会場は新飯塚駅前のホテルです。50年前にタイムスリップしてきます。歳は取りたくないが「早く来い来い」です。  

弥栄町6番地さん

 投稿者:弥栄59  投稿日:2018年 5月11日(金)00時51分12秒
返信・引用
  でしょう?
余りにも徹底的に過去の面影を消されています。或いは、炭鉱閉山後の地域活性化の一環としての結果なのでしょう?(地域整備・産炭地整備の一環でしょうか?)
地域に住まわれている方々にとっては、有難い改造・整備工事なのですから、、
一連の投稿に書いているように、人工的に作られた鉱山(ボタ山)も周りの景色も人工的に意図を持って消去されるものでしょうから、、、、致し方ない話。
確かに薬師堂は小山の中腹にありました。この山も古い時代のボタ山だったと思います。
小山の下のところの駄菓子を売る小さなお店は”金子”さん?ではなかったと思います。
その店の右側に井戸があり”魚釣り、山歩き”の行き・帰りに井戸水を勝手に飲んでいましたね!

神戸・三ノ宮~博多~篠栗線(桂川駅)~桂川役場(町内バス)から吉隈まで弥栄あたりで散策し、帰らぬ時の流れを感じ、再び桂川役場~桂川駅~飯塚(泊の工程ですね?)
飯塚の鄙びた一杯飲み屋で一人飲むのも良いのかもと思っています。
今尚 思案中! 余りにも便利が悪すぎるような!(思い切れば速攻移動なのですけど、、)
同級生も”ジジ、ババ”だろうし、私自身が意識をもって動けるのは今しかないようにも思えるのですが、、

では、、






 

Re: 弥栄町6番地さん

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2018年 5月10日(木)13時27分13秒
返信・引用
  > No.376[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

こんにちは。弥栄町6番地です。

グーグルマップで桂川町を見ましたが、なんだか平坦な町になっているんですねえ。ゴルフ場のせいですね。
ボタ山が無くなっているのは知っていましたけど、町全体が起伏のない町になっているようで、
子ども時代に小山に登ったり、林みたいなところに入って遊んでいた記憶とは全く結び付きませんでした。

> 唯一、残されているもの(建て替えられて)として、薬師堂が吉隈別れにあるようなので、
> 此処で、正面に麻生のボタ山があり、右手に又手踏切があり、左手に稲築方面を望み、背後に一つの仕事を終えた赤いボタ山にし、この地で亡くなられた幾多の故人を偲び経文を唱えて来ようかと思っています。

この薬師堂というのも吉隈別れ(そう呼ばれていたのですか?知りませんでした)のところにある小山の
中腹に建っていたような記憶がありますが、ちがいますでしょうか?。
その小山の下のところに駄菓子を売る小さなお店があって、お好み焼きや夏にはかき氷をそこで食べた思い出があります。今思い出すと薄っぺらなお好み焼きですが、ソースと鰹節の粉がたっぷりかかっていて最高の
ごちそうでした。

>
> 描きかけの”又手踏みきり”と、自分の目で見えたであろう”ボタ山”と碓氷方面から平恒方面へのD51蒸気機関車を載せました。

確かにこんな感じでした。この絵のように弥栄町も一段高いところにあったはずなのに、グーグルでみると
ぜんぜん高い感じがしません。土手の整備などによるものでしょうかね。
でも家の配置をみると弥栄町の番地まで思い出せそうです。

さて、13日はどうされるのでしょうか?

ではまた
 

Re: 弥栄町6番地

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2018年 5月 8日(火)13時17分25秒
返信・引用
  > No.373[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

こんにちは。ご返信ありがとうございます。

> しかしながら、約45年間 仕事の関係上、栃木、座間、横浜、追浜、藤沢 (関東地区)等々その他全国主要都市・海外へも出向きましたが、麻生吉隈の出身者には、遭遇できませんでした。(運が無かったのでしょう!ね!)

この土地の移動履歴から推測しますと、弥栄59さんは日産自動車に関係する会社にお勤めだったのでしょうか?
わたしの一家(というか吉隈炭鉱からは数十家族が)は座間工場に再就職していました。
住居はその頃の国の政策で作られた「雇用促進住宅」という炭鉱離職者用の団地で、藤沢にありました。
北海道の炭鉱を離職した人たちもこの団地にたくさんいました。エネルギー政策の石炭からの撤退が
もたらした日本の北と南からの人類大移動(大げさですね)のようでした。

> 中学・高校とクラブ活動で柔道をしていました。 擦り傷、捻挫、筋肉痛を抱えながら、中学校の帰り道を”又手踏切、弥栄、ボタ山”が見えるとやっと家に帰り着いたと思ったものでした。
> その風景を描き始めました。

桂川中学からの道を思い出しました。2か月しか通学していませんが。
土肥四つ角とかいうバス停があるところから曲がって、そのまま又手の村までずーっとあるいて
原中酒店、又手川に掛ったぼろい橋、又手踏切、稲築町方面に行く分かれ道を右に曲がると風呂場が
見えてくる感じでしたでしょうか。
絵の完成楽しみにしています。

ではまた。

 

Re: 悦子の娘さんへ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2018年 5月 7日(月)13時17分39秒
返信・引用
  > No.371[元記事へ]

弥栄59さんへのお返事です。

こんにちは。弥栄町6番地です。うらの5番地が渡辺さんのお宅でした。
学にいちゃんと同学年だったんですね59番地さんは。
歳が離れているので遊んでもらった思い出はないですが、家族ぐるみの付き合いだったので、
年上のひとはみんな、にいちゃん、ねえちゃんと呼んでいました。
わたしは悦子ちゃんと幼稚園からずっと一緒でしたが、中学1年のときに神奈川に一家で
引越し、そのあと一度だけ悦子ちゃんとお母さん(そうでした道子さんでした。鹿児島出身)が
家に遊びに来てくれました。まだ悦子ちゃんが20歳くらいの時です。
それ以来あったことがなく、このサイトに冗談で書き込んだら悦子ちゃんの娘さんが
投稿してくれたのでびっくりしたのです。
ただ、それ以降はこのサイトを見てくれてはいないようですよ。
なにかのときに59番地さんの投稿を見てくれるといいですね。

> 吉隈炭鉱在住のOBとして私の記憶に残っているのは平凡な日常の景色だけだったと思い定めました。添付しているファイルは当時のボタ山の風景です。(未だ未完成ですが、、、、)
> カイトさんによる詳細な位置関係の航空写真を元に、暇に任せて炭住の隙間から見えた私のボタ山などを描いて見たいと思っています。

このボタ山は旭町から見上げるところのボタ山でしょうか?
サイレン山にはよく登りました。3時の時報がなるときに真下で耳を押さえて
聞いていた思い出があります。もう姿かたちもありませんが。

ではまた。


 

Re: 悦子ちゃん

 投稿者:弥栄59  投稿日:2018年 4月30日(月)19時51分4秒
返信・引用
  > No.307[元記事へ]

悦子の娘ですけどさんへのお返事です。

> どちらさまでしょうか?
> 母にこれを見せたらびっくりしてました!
>
はじめて連絡させて頂きます。
桂川東、桂川中、嘉穂工業を卒業し昭和45年(1970年)吉隈を離れ兵庫県”明石市”に就職しています。
現在、神戸市に在住しております。
先般 定年退職し自分探しの旅に出たいと思い”Google Map”で桂川町を検索すれど、往時の吉隈弥栄町の面影は全く無く失望のどん底にあったのですが、この掲示板を目にしもしやと思い連絡する次第です。

私の小学校の遊び仲間(同級生)に、マナブやマサナリ、トッちん、(ユキオちゃん、ススム、(?)、カヨコさん)、(ミノル、トシボウ)らがいました。マナブのお父さんは”勉さん”、お母さんは”道子’?さん、姉は”アイコ”、妹は”マユミ”、その下の妹は”エツコ”、その下の妹は”ミサコ”さんだったと思います。
マサナリのお母さんは”タマ”?さん、妹は”イクコ”?さんだったと思います。
ユキオちゃんらのお母さんは”ノキ”さん。ミノル、トシボウのお父さんさんは、”ヨシオ”さん、お母さんは”フミコ”さんでした。
悦子の娘さんが”渡辺 勉(つとむ)さん”のお孫さんであれは喜ばしいことです。
私の父は、17年前に他界し、母は90歳になりました。
父は”ユタカ”母は”ナミ”、妹はノリコ、弟はトシミツです。

間違っていたら大変申し訳ありません。
弥栄59番地も記憶が薄く、、、、風呂場のボイラー側(裏手)でした。








 

桂中吹奏楽部OB会

 投稿者:中嶋清重(げんジー)  投稿日:2017年12月19日(火)12時44分44秒
返信・引用
  中学校時代の吹奏楽部の初めてのOB会(同窓会)に出席しました。51年ぶりに会う男子の同期生は一目で分かり合いました。握手をし肩をたたき合って挨拶するグループがいくつも出来ました。全員で37名が集まりました。美味しいごちそうには目もくれず積もった話を一気にするものですから会場は「うるさい」の一言です。二次会になってからは少し静かになりましたが話は尽きません。会いたいと思っていた女子も名簿にありましたが顔がありません。51年の歳月が彼女を少女からオバーチャンに変えてしまったのです。時間は残酷です。毎年OB会をやろうと話は盛り上がりましたがどうなるかは世話をする人の健康次第でしょう。大変貴重で楽しい会でした。  

同窓会(再送)

 投稿者:中嶋清重(げんジー)  投稿日:2017年12月 8日(金)11時15分55秒
返信・引用
  boroさん、メール再送しました。ご友人出席できると良いですね。  

吹奏楽部同窓会の件その後

 投稿者:boro  投稿日:2017年12月 7日(木)14時25分5秒
返信・引用
  中嶋清重(げんジー)さん。ご免なさい。メールが届いていないようです。もう一度お願いできませんでしょうか。  

その後

 投稿者:中嶋清重(げんジー)  投稿日:2017年12月 5日(火)10時22分1秒
返信・引用
  boroさん、メール入れましたけどその後どうですか?連絡取れましたか?  

吹奏楽部同窓会の件で教えてください。

 投稿者:boro  投稿日:2017年11月 9日(木)20時12分21秒
返信・引用
  中嶋清重(げんジー) さん、友人で吹奏楽部の出身の方がいます。中崎徳雄さんです。昭和39年卒業です。
恐らく、吹奏楽部の同窓会のことは知らないのではないかと思いますので、情報を提供したいのですが、詳細な同窓会場、時間、連絡先を教えていただけませんでしょうか。現在、中崎さんは横浜に住んでいます。掲示板以外でのboroの連絡先アドレスはboro11furusawa@gmail.com です。よろしくお願いします。
 

同窓会

 投稿者:中嶋清重(げんジー)  投稿日:2017年11月 8日(水)11時17分14秒
返信・引用
  12月17日(日)に桂川中学校の吹奏楽部の同窓会に出席します。私自身初めての同窓会です。計画してくれた後輩に感謝の思いです。帰ってきたら報告いたします。  

誤字訂正

 投稿者:誰でしょう  投稿日:2017年10月23日(月)07時59分23秒
返信・引用
  何度もすみません。誤字訂正;当行→投稿  

昨日投稿の写真

 投稿者:誰でしょう  投稿日:2017年10月23日(月)07時56分40秒
返信・引用
  追記;昨日当行の写真は昭和28年、現在の桂川東小学校(旧分校)の校庭で父が写したものです。私は当時松原社宅に住んでいました。  

誰でしょう(笑)?

 投稿者:誰でしょう  投稿日:2017年10月22日(日)09時57分33秒
返信・引用
  私もどこかにいます  

boroさんへ

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2017年 2月15日(水)12時42分32秒
返信・引用
  > No.350[元記事へ]

boroさんへのお返事です。

> 感じたことどもは、またの機会にして、開校から30年間の東小学校の卒業生の推移を整理してみました。私の年代を筆頭に6年間の卒業生、在校生の多さに今更です。皆様の記憶を蘇らせる一助になればと思います。

思い出しました。昭和38年あたりに急に生徒が増えて、急きょ体育館に間仕切りのような
壁をいくつかつけて、教室代わりに使われていたこと。
それから、その工事が仕上がるまでは午前中授業組と午後授業組があってそれぞれ
一番方、二番方と言っていたことを。
それからあっという間に閉山でしたからねえ。
閉山は44年5月だったんですね。なんかそれ以前からほとんど仕事は
なくなっていたような記憶なので、大阪万博の前年まで炭鉱があったなんて
思えないですねえ。
わたしたち一家が引越ししたのが44年6月でしたから閉山直後だったのが
この表をみてわかりました。
ありがとうございました。
 

弥栄町6番地さんありがとうございます

 投稿者:山ちゃん  投稿日:2017年 2月14日(火)23時21分10秒
返信・引用
  私の投稿にコメントを頂きありがとうございます
私も60才をすぎ、育った吉隈に郷愁を覚え
昔の面影思い出を探しています
でも今の吉隈は面影が殆ど残っていません
寂しくなりました、でも少年時代を過ごした事は忘れません?これからも時間が許す限り吉隈を、探索して行きたいです
また懐かしいものを見つけ投稿します
 

Re: 桂川の図書館で当時の絵地図を発見

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2017年 2月14日(火)12時37分20秒
返信・引用
  > No.355[元記事へ]

山ちゃんさんへのお返事です。

> 地図です

懐かしい地図ですねえ。まるで江戸時代の地図みたいですね(笑)
町名が縁起のいいものが多いのがよくわかります。
弥栄町、寿町、末広町・・・。
子供の足で歩くととても遠い通学路(弥栄町から東小学校まで)だと思ってましたけど、
実際いま歩くとそれほどでもないのでしょうかね。
もう数十年帰ったことがないので記憶を探るだけです。

今住んでいる人たちの多くはもうほとんどが炭鉱の記憶も薄れたか、炭鉱とはなんの
関係もない人たちでしょうか。

失われた時を求めてです。

 

桂川の図書館で当時の絵地図を発見

 投稿者:山ちゃん  投稿日:2017年 2月 9日(木)16時11分51秒
返信・引用 編集済
  地図です  

桂川の図書館で当時の絵地図を発見

 投稿者:山ちゃん  投稿日:2017年 2月 9日(木)16時08分30秒
返信・引用
  私は、昭和29年生まれで、東小学校卒業です
吉隈に行って全然変わっていたので
昔の面影を探し回しました
やっと添付の絵地図昭和42年頃の
町の名前が書いたもの見つけましたので
投稿します。
懐かしい町名載っています
 

弥栄町6番地さん他へ

 投稿者:boro  投稿日:2016年11月11日(金)10時14分58秒
返信・引用
  弥栄町6番地さん。ありがとうございます。今日は風邪引きで会社も休んでいます。
さて、弟と同級生ではとのこと。この11月、12月には帰省予定がありますので、小学校時代のことを尋ねてきましょう。また、結果をお知らせいたします。
10月20日に桂川東小学校に行ってきました。きっかけはこの交流掲示板でした。博多と飯塚に所要があったので、炭鉱跡にもと思い足を運びました。
感じたことどもは、またの機会にして、開校から30年間の東小学校の卒業生の推移を整理してみました。私の年代を筆頭に6年間の卒業生、在校生の多さに今更です。皆様の記憶を蘇らせる一助になればと思います。
 

Re: はじめて投稿します。

 投稿者:弥栄町6番地  投稿日:2016年11月 7日(月)12時44分12秒
返信・引用
  > No.348[元記事へ]

boroさんへのお返事です。

> 私は昭和23年生まれの団塊の世代の67歳(誕生が来れば68歳ですが)です。吉隈の幼稚園、桂川小学校の吉隈分校。桂川東小学校3期生として卒業、桂川中学、嘉穂高校を経て、高校を卒業と同時に吉隈を両親・兄弟共々に離れ、広島に転居。弟たちは桂川中学卒業と2学年での転校でした。吉隈での炭住の転居は、宝町、栄町、笹尾町でした。私たち家族が最後に住んでいた笹尾町の社宅は閉山時は残っていましたが、今は建て替えられているようでした。
> 末の弟も還暦を迎え、実家で兄弟の共通の話題になるのが、まさにこの交流掲示板の内容です。先日も実家で吉隈の生活の話をしましたが、昔はその中心だった母も齢90を越え記憶が薄れている様子。この炭鉱交流掲示版の内容や今更ながらの団塊の世代の我々のネットワークを深堀して、兄弟・親子の会話を楽しみたいと思います。また、交流掲示板の中の疑問なども深堀したく思っています。こんなことで、情報提供できればとも思っています。
> また、投稿しますのでよろしくお願いします。

初めまして。弥栄町に住んでいた者で、今年度中には還暦を迎えますのでboroさんの末の弟さんともしかすると同学年かもしれません。
閉山したのがわたしが小学校の5年か6年のときですから月日が経つのは早いものです。
閉山後には吉隈炭鉱の方たち数十家族とともに神奈川県の日産自動車に就職のため転居しました。
そのころは炭鉱失業者のための雇用促進事業団があり団地を建てていましたので、団地1棟のほとんどが
吉隈炭鉱から引っ越した人たちばかりでした。もうそのころの世代の方たちは他界されてしまいましたが。
この交流掲示板に投稿されている方のなかにもわたしと同じところに住んでいた方がおられるようですよ。

吉隈炭鉱の記録などあればと思いネットを調べますがあまりないですね。
みんな閉山で日本全国、あるいは世界のどこかに散らばられていますからね。

弟さんの吉隈小学校の担任の先生はどなただったんでしょうか?
私は1年、2年が細川先生、3年、4年の先生の名前は失念。5年、6年が中山先生でした。

ではまた。





 

はじめて投稿します。

 投稿者:boro  投稿日:2016年10月22日(土)20時45分2秒
返信・引用
  私は昭和23年生まれの団塊の世代の67歳(誕生が来れば68歳ですが)です。吉隈の幼稚園、桂川小学校の吉隈分校。桂川東小学校3期生として卒業、桂川中学、嘉穂高校を経て、高校を卒業と同時に吉隈を両親・兄弟共々に離れ、広島に転居。弟たちは桂川中学卒業と2学年での転校でした。吉隈での炭住の転居は、宝町、栄町、笹尾町でした。私たち家族が最後に住んでいた笹尾町の社宅は閉山時は残っていましたが、今は建て替えられているようでした。
末の弟も還暦を迎え、実家で兄弟の共通の話題になるのが、まさにこの交流掲示板の内容です。先日も実家で吉隈の生活の話をしましたが、昔はその中心だった母も齢90を越え記憶が薄れている様子。この炭鉱交流掲示版の内容や今更ながらの団塊の世代の我々のネットワークを深堀して、兄弟・親子の会話を楽しみたいと思います。また、交流掲示板の中の疑問なども深堀したく思っています。こんなことで、情報提供できればとも思っています。
また、投稿しますのでよろしくお願いします。
 

臼井駅前の選炭場写真です

 投稿者:ばってんわたるくん  投稿日:2016年 9月17日(土)20時11分56秒
返信・引用
  http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/railbusu-usui-hirayama/usui.html  

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